縄文、弥生、奈良、平安、鎌倉、江戸…。各時代の先人たちが生活した跡が見つかった寒河江市・三条遺跡。寒河江-山辺断層のラインにある高瀬山の東側に位置するこの遺跡で、いまから16年前、土器や柱跡など人々の暮らしぶりとは無縁の、奇妙な痕跡が見つかった。下から上に向かって突き抜けるように走る細長い砂の脈。地震が起きた際に生じる「噴砂」と呼ばれる現象の跡だった。
噴砂は、水を含んだ緩めの砂層が地震の震動を受けて流動化し、地割れから噴き出したものを指す。県内で初めて確認されたのは遊佐町の下長橋遺跡。1988年の発掘調査で、最大幅約1メートル、長さ15メートル以上の帯状砂が露出した。県埋蔵文化財センターの資料によると、10世紀後半から11世紀前半の平安時代に起こった地震によって生じたと考えられている。
井戸跡で特定
一方、三条遺跡の噴砂は、山形自動車道の工事に先立って行われた発掘調査で96年に見つかった。「内陸盆地では初めての発見だった」。元山形大教授の阿子島功は話す。確認された噴砂は4条。幅5~10センチ、長さ2~4メートル以上で、縄文時代の地層と平安時代の地層を切って脈状に噴き出していた。
噴砂の原因となった大地震はいつ発生したのだろうか。年代の特定は、井戸跡が鍵となった。噴砂の周辺には三つの井戸跡があり、そのうち一つは、井戸底に埋め込まれる木枠が壊れていることが分かった。阿子島らは、この破壊が地震によるものと推定。井戸の埋め土の中にあった土器片から、噴砂は13世紀ごろに起きた地震によって生じたと判断した。
寒河江市の三条遺跡で見つかった噴砂脈。13世紀ごろに起きた地震によって生じたとみられる(阿子島功氏提供)
まだ800年しか
三条遺跡では、地層が折り畳まれるように変形する褶曲(しゅうきょく)跡も見つかった。軟らかい地層が大地震で揺すられた痕跡という。噴砂はその後、山形市の梅野木前1遺跡でも発見された。
政府の地震調査研究推進本部がまとめた山形盆地断層帯の長期評価によれば、断層帯南部の平均活動間隔は2500年程度としている。
もし三条遺跡の噴砂が近くの高瀬山周辺で起きた大地震によるものならば、13世紀からまだ800年しか(われわれの時間感覚からすれば「しか」という表現には抵抗感があるが、活断層の周期は千年あるいは万年単位なのだ)たっていない現代は、もうしばらくは枕を高くして眠れることになる。
しかし、阿子島は「噴砂は必ずしも近くで起きた地震によるものとは言えない。離れた場所で起きた大地震によって生じる場合もある」と話す。阿子島は97年に発表した論文で、噴砂が近くの断層地震によるものなのか、遠い地震によるものなのか、今後事例が増えないと分からないとした。あれから15年以上経過したが、「残念ながらいまも分かっていない」。=敬称略
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