川西町の中心部にあるJR羽前小松駅から北へ2.5キロ。眺山(ながめやま)丘陵に、東北と大和朝廷との関係性を示す貴重な古墳群がある。下小松古墳群だ。円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳など大小188基もの古墳が集中しており、2000年9月、国の史跡に指定された。
昨年11月に発行された国土地理院の都市圏活断層図「米沢」では、眺山丘陵の東縁に活断層を示す赤いラインが引かれている。長井盆地西縁断層帯を構成する断層の一つ、高戸屋山断層。元山形大教授の阿子島功は「この地形は東西圧縮による断層運動によって数十万年かかって隆起したと考えられる」と語る。
東北で最大級
下小松古墳群の発掘調査に1983(昭和58)年から長年携わってきた川西町文化振興主幹の藤田宥宣によれば、古墳が造られたのは4世紀から6世紀にかけて。東北最大級の古墳群で、県内にある前方後円墳の約半数にあたる19基が確認されている。
日本最初の統一政権となった大和朝廷と東北の関係を具体的に示す重要な古墳群とされるが、なぜそう言えるのか? 「前方後円墳は大和朝廷で造られた形式の墓。県内では以前から南陽や上山でも確認されていたが、その数は一つずつしかなかった。下小松にこれだけ大量の古墳があるとは当時考えられず、大和朝廷の影響が東北に及んでいたことがはっきり分かった」。藤田は解説する。
大和政権時代に栄えた古墳文化では、壮大な高塚式古墳が造られた。丘陵を利用したり盛り土をして墳丘を築いた墓で、円墳、方墳、前方後円墳などさまざまな形がある。実はこの「丘陵を利用した」という点が、活断層と密接につながる。
堺市にある大山古墳。宮内庁から仁徳天皇陵に指定されているこの前方後円墳は全長486メートル、高さ35メートルで日本最大。世界でも最大級の墳墓として知られている。築造は5世紀中ごろ。三重の堀と堤に囲まれており、すぐ西側には上町断層帯が走る。日本で2番目に大きい大阪府羽曳野市の応神天皇陵=誉田御廟(こんだごびょう)山古墳は、前方部が崩壊しているが、これは断層運動によるものとされる。都市圏活断層図では応神天皇陵をまたぐように赤い線で「誉田断層」が引かれている。
断層運動によって隆起した眺山丘陵。丘の上に集中する下小松古墳群は大和朝廷との関係を示す貴重な遺跡として知られている(川西町提供)
権力を誇示か
完全に平らな場所に盛り土するよりは、もともと小高い地形を利用して墓を築くことは極めて理にかなっている。阿子島は「本県では寒河江市の高瀬山や山形市のすげさわの丘などにも古墳がある。たまたま断層運動によってできた地形を利用したケース」と話す。
丘陵地は見晴らしが良く、現代でも墓地が建つケースは決して珍しくない。「当時の支配者たちは死後に安らぎを求めるとともに、自分の力を誇示したかったのではないか」と阿子島。もっとも古墳時代の豪族たちは、自らが眠るその場所が大地震を伴う断層運動によって盛り上がったとは思いもしなかったに違いない。=敬称略
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る