地震に関する研究は多様だ。地震学、変動地形学、地質学、地震工学、津波工学…。その中の一つに、歴史学の視点からアプローチする分野がある。「将来起こるであろう地震への対策は、既に起こった地震の研究によって可能となる」。新潟大教授で同大災害・復興科学研究所副所長の矢田俊文は、歴史を学ぶことの意義を語る。
秋田の地震?
東大地震研究所元講師の羽鳥徳太郎の論文によれば、日本海側の津波は701年、若狭湾内で発生したものが記録の始まりだ。以来、数多くの津波が記録されてきたが、古い史料は限られており、議論できるのは1700年以降という。
歴史上、本県に影響を及ぼした津波は850年の出羽地震、1804年象潟地震、33年庄内沖地震などが知られている。山形県の「主な地震記録と被害概況」によると、出羽、象潟地震はマグニチュード(M)7、庄内沖地震はM7.5。出羽地震は「出羽国地大いに震い(略)圧死するもの多し」、庄内沖地震は「県南部では水死38人」「津波は北海道から能登までに及んだ」とある。
歴史地震に詳しい矢田は「18世紀以降は藩・庄屋などの確実な史料が残っており、文献を中心に津波到達点を明らかにできる」と語る。その上で「山形県の人たちにとって、より注目すべきは1804年の象潟地震です」と強調する。
象潟は本県と接する秋田県南端の町(現在は合併でにかほ市)。「日本歴史災害事典」(吉川弘文館)によれば、推定Mは7.0~7.3。由利本荘市から酒田市までが震度6~7となり、350人以上が犠牲になった。
「地震の名称は象潟だが、実は庄内の被害は相当大きい。しかし、山形では『秋田の地震』と勘違いされているのではないか」と、矢田は危惧する。「(歴史資料を読み解くと)庄内藩では全壊3239軒、死者は150人。一方(秋田側の)本荘藩は全壊1711軒、死者161人。死者こそ秋田側が上回るが、全壊は庄内側がずっと多い」
地震津波は日本海側でも繰り返し発生してきた。歴史に学び、英知を結集して減災につなげたい=鶴岡市
日本は活動期
日本海の海底では数多くの断層や背斜(はいしゃ)構造が確認されている。「日本海東縁の活断層と地震テクトニクス」(東京大学出版会)によれば、「断層と背斜構造はいままでに地震が繰り返し発生してきた場所であり(略)今後も地震が発生する可能性の高い場所」だ。本県沖合10キロには酒田沖隆起帯があり、その西側には、長さ100キロクラスの長大な断層が複数並走。佐渡島北方沖は、今後30年以内の発生確率が3~6%の「地震空白域」とされ、本県への影響が懸念される。
「1995年の阪神大震災以降、日本は地震の活動期に入った。どこでどんな地震が起きてもおかしくない状況になっており、東日本大震災を『太平洋側の地震』と思わない方がいい」と矢田は話す。
もちろん地震は起きない方がいいに決まっている。しかし、大地震はこれまで日本各地で繰り返し発生してきた。だからこそ「過去のさまざまな地震を丹念に調べ、歴史に学ぶことは大きな意味がある」と矢田。
変動地形学や津波工学など、地震研究の道は多様だが、それぞれの専門家が地道に研究を積み重ね、英知を結集することが、「命を守る」という目標にたどりつく唯一の道だ。=敬称略・第6部おわり
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