やましん防災ナビ
東日本大震災から5年~忘れない3・11[1] あの時を振り返る(上) 山形の遺族
[2016 03/01]

 

 夫の遺影を前に女性はしみじみと深く息を吐いた。約1万8千人の死者、行方不明者を出した東日本大震災。犠牲者の多くは大津波が発生した太平洋側の県出身者に集中しているが、山形県民も4人が命を落とした。「たまに夢に出てくるけど、何も話してくれないの」。世間では「あれから5年」と時間の経過を口にする。多くの遺族にとっては、あの日から時間が止まったままなのに…。

途絶えた連絡
 山形市あかねケ丘2丁目で1人暮らしをしている相馬恵美子さん(74)。福島県南相馬市の沿岸部で水産加工会社を経営していた夫の稔さん=当時(69)=が現地で被災し、大津波で帰らぬ人となった。「(夢に出てくるのは)私を心配してくれているのかな」とつぶやいた。稔さんの仕事仲間は生き残ったが会社の建物自体が流され、再建するといった話は聞こえてこない。

 近所に支えてくれる友人がいて、健康で買い物に出歩くことも多い恵美子さんだが、東京で働く長男が独りになった母親を心配し「一緒に暮らさないか」と言ってくれる。素直にうれしいが「身の回りのことは自分でできる。元気でなきゃ、お父さんの供養もできない。(山形を離れたら)寂しがるような気がしてね」と笑って見せた。

 稔さんは平日を南相馬市で、週末を山形市の自宅で過ごす生活を送っていた。愛妻家の稔さんは震災前日の朝と夕方の2回、恵美子さんと電話で言葉を交わした。それが最後の会話になろうとは。

 5年前の3月11日。稔さんは事務所に1人でいることを仕事仲間に電話で告げたのを最後に連絡が取れなくなった。恵美子さんは稔さんの携帯電話を呼んだがつながらない。「あれほどマメに電話をくれた人が」。胸騒ぎがした。翌12日に「ご主人の行方が分からない」との電話が夫の仕事仲間から自宅に入った。

東日本大震災で亡くなった相馬稔さんの遺影の前で、現在の心境を語る妻の恵美子さん。この5年は「あっという間だった」=山形市

東日本大震災で亡くなった相馬稔さんの遺影の前で、現在の心境を語る妻の恵美子さん。この5年は「あっという間だった」=山形市


無言の優しさ
 テレビで繰り返される巨大津波の映像に「もう駄目。見てられない」。どうしたらいいのか、何をすればいいのか全く分からなかった。1カ月ほどが過ぎて、車が見つかったが、車内に夫の姿はなかった。数日後、温かな日差しに誘われ、庭でぼんやり草むしりをしていた時に福島県警から電話が入った。

 「稔さんと思われる人が見つかりました」。これまで抑えてきた思いが一気にあふれ出し、涙が止めどもなく流れた。おえつに気付いたのか、一報をくれた警察官は恵美子さんがつらい現実を認識するまでの間、無言でいてくれた。その優しさを今でもはっきり覚えている。

 安置所に出向き対面。長く連れ添った夫の姿とは到底、思えなかった。ただ、衣類や誕生日に贈った腕時計などは間違いなく稔さんの所持品だった。「よく見たら目元からお父さんだと分かった」。各種手続きを経て、山形市で葬式を出した。稔さんは市内の墓で眠っている。

 恵美子さんは携帯電話に夫からの着信とすぐに分かるよう唯一、沖縄民謡が流れる設定にしていた。今は、広島県に住む長女から電話が入ると同じ曲が流れるようにした。明るく軽やかなメロディーが1人暮らしの部屋に響く。「お父さんから電話がきたみたいで、ちょっといいのよ」と話し、遺影の変わらぬ笑顔にほほ笑んだ。
 東日本大震災の発生から間もなく5年がたとうとしている。被災したり、家族を失ったりした人にとって、震災後の時間はどんなものだったのだろうか。遺族、津波に巻き込まれながらも一命を取り留めた被災者、さらに福島第1原発事故による本県への避難者らを取材。現在の心境を聞くとともに、発生当時に被災地を取材した本紙記者が5年後の状況をルポした。また、各行政機関や企業が震災を教訓として取り組んだ防災対策についても検証する。