【没後20年・生誕90年】山形大教授・山本陽史(下) 「世間」
2017年01月28日
藤沢周平さんの名作「蟬しぐれ」の最後の場面は「簑浦(みのうら)」という海に面した湯治場である。これは鶴岡市の湯野浜温泉がモデルとなっている。郡(こおり)奉行牧文四郎改め牧助左衛門が領内の見回りから戻ると1通の手紙が届いていた。それは亡くなった前藩主の側室、お福さま(幼なじみのふく)からであった。前藩主の1周忌を機に出家して尼になる決心をし、その前に助左衛門に会いたいという。2人は簑浦の湯宿で文四郎とふくの間柄につかの間戻って、濃密な時間を過ごす。
お福さまのこの振る舞いは、側室とはいえ殿の子までなした立場としてはいかがなものであろう。公には許されるものではなく、世間から指弾されるべきものであろう。だが、女性として自身の恋心に忠実に行動したお福さまの姿に共感しない読者はいないだろう。
藤沢さんの作品には彼女のように世間のしきたりを超え、大胆な行動に出る女性たちがしばしば登場する。例えば「山桜」の主人公野江は、腐敗していた組頭を城内で成敗した手塚弥一郎をののしる夫に反抗して離縁される。その後、獄につながれ誰も寄りつかなくなった手塚の家を訪れる。武家の女性としては大胆すぎる行動である。
2008年に放送されたNHKドラマ「花の誇り」の原作「榎(えのき)屋敷宵の春月」は藩の次期執政入りをめざす組頭寺井織之助の妻の田鶴が主人公である。田鶴は藩の江戸屋敷から国元の不正を告発する手紙を届けに来た使いの若者を屋敷にかくまう。しかし若者は殺されてしまい、田鶴はその犯人を腕に覚えのある小太刀で仕留める。そして藩の不正を幼なじみで藩政に隠然たる影響力を持つ小谷三樹之丞に告発する。
対する男性たちはどうであろう。「榎屋敷」の織之助は執政入りのかかった大切な時期に若者をかくまって厄介事を抱え込んだ田鶴を非難する(実に分かりやすい反応である)。
武士たちは「恥」をかかされることを何よりも嫌った。「恥」は世間の物笑いになることで、まさしく世間の産物である。彼らは現代でいえばさしずめ宮仕えの公務員かサラリーマンにあたる。現代よりも地域社会が固定され、家単位で仕事が継承される時代の男たちは、世間体をはばかる窮屈な生き方を強いられたろう。その意味では同情の余地はある。世間はその中で順応していれば実に居心地が良いが、はみ出すと村八分やいじめなどの耐えがたい制裁が待っているのだから。もちろん世間は変化しつつ現代にも継承されている。
「雪明かり」の芳賀菊四郎は血のつながらない妹由乃を追い、280石の婿養子の立場を捨て江戸に向かう。「たそがれ清兵衛」の井口清兵衛は妻の看病を理由に藩命をあっさり断る。男たちは女性のため世間からはみ出していく。藤沢さん描く女性たちが輝いている理由は、世間というハードルを越える決断力と行動力にある。藤沢作品の大きな魅力の一つだ。
(山形大学術研究院教授)
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