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【没後20年・生誕90年】文芸評論家・池上冬樹(上) 「愛した『幻の女』」

2017年05月29日
 最も興奮した小説は何かと海外ミステリーファンにアンケートをとると、必ずベスト3に入るのが(時に第1位にも輝くのが)、ウィリアム・アイリッシュの「幻の女」(1942年)である。映画化もされたし、日本では過去5回もテレビドラマ化されている古典中の古典で、おととしにはハヤカワ文庫から新訳版も出たが(ちなみに解説は僕が担当している)、この「幻の女」を愛していたのが、藤沢周平氏である。

 「推理小説好きの父の姿で、印象深い一枚の写真があります。父のサラリーマン時代で、髪を七三にわけ、コートを着てマフラーを首に巻いた父が、富士見台駅のホームで『幻の女』を持って笑っている写真です。ぼん書房という、今では聞かない出版社の本です」と遠藤展子さんが「父・藤沢周平との暮し」に書いている。

 藤沢氏のサラリーマン時代というと1950年代後半以降となり、最もよく流通していた「幻の女」の翻訳は55年に上梓されたハヤカワ・ポケット・ミステリ版だろう。藤沢氏が手にしたのは、このポケミスのオリジナルで、汎書房から50年に刊行されたもの。よほど気に入った小説だったのだろう。

 「幻の女」は、妻殺しの容疑で3カ月後に死刑執行される男の無実を証明すべく、友人たちが事件の鍵をにぎる幻の女を探す物語で、推理小説史的にはタイム・リミット・サスペンスの創造と、終盤の大どんでん返しが強烈で、いまなお新鮮である。

 ミステリーファンなら誰もが高く評価する作品なので、逆に作家側からすれば安易に題名を使えないものだが、しかし藤沢氏はあえて「幻の女」という題名の小説を書いた。「獄医立花登手控え」シリーズの第2弾「風雪の檻」に収録されている。

 牢の中に、遠島の刑を言い渡された巳之吉という男がいた。身の上話を聞くと、おこまという女がいて、彼女に出会わなければ犯罪に巻き込まれることはなかった。立花はあと1カ月たらずで島送りになる男のために、男の運命を変えた幻の女を追い求める話だ。

 設定と漠然とした骨格が似ているだけで、タイムリミットものではないし、どんでん返しもない。最後に探し出された幻の女が、伝えられた事実を知って無垢な表情を見せるあたりが(「幻の女」のほうでは別の意味合いもあるが)、アイリッシュ作品と共鳴している部分である。表立ったオマージュとよべる作品ではないが、しかし根底にアイリッシュの古典があることは間違いない。プロ作家なので、影響の痕跡をあらわに見せることに抵抗があったのだろう。

 しかし初期の藤沢氏にはあからさまに影響の痕跡を残した小説がある。藤沢文学に影響を与えたのは小説家ではなく詩人である。丸山薫だ。(山形市)

 ▽いけがみ・ふゆき氏は1955年山形市生まれ。文芸評論家。立教大文学部日本文学科卒。「週刊文春」「小説すばる」ほか各紙誌で活躍中。著書に「ヒーローたちの荒野」「週刊文春ミステリーレビュー2011―2016『海外編』名作を探せ!」。編著に「ミステリ・ベスト201日本篇」、共著に「よりぬき読書相談室」ほか多数。「山形小説家・ライター講座」と「せんだい文学塾」の世話役を長年務めている。
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