【没後20年・生誕90年】文芸評論家・池上冬樹(下) 「丸山薫の詩&海外ミステリー」
2017年05月30日
藤沢周平氏は山形師範学校の学生時代、山形市内で行われた丸山薫の講演を聞きにいった。1948(昭和23)年の6月、21歳の時だ。生身の詩人に会った「その日の出来事は、その後の私に何ほどかの影響を残した」と書いている。影響とは、丸山の有名な「砲塁」「噴水」「神」のような詩から「存在の重層性というと面倒くさいが、物ひいては世界は決して一面的な存在ではないという、物の見方を教えられた」、「『溟(くら)い海』という初期の自作の中で私自身が気に入っていた二、三の文章などは、若い自分に前掲のような丸山薫の詩に出会い、若干の影響をうけたこととまったく無縁ではないような気がする」(文春文庫「半生の記」所収「続詩人」より)と述べている。丸山の詩と藤沢の文章を照合するスペースがないので、要点だけを書くなら「溟い海」のラストシーンだろう。「絹布の上に、一羽の海鵜(う)が、黒黒と身構えている。羽毛は寒気にそそけ立ち、裸の岩を掴(つか)んだまま、趾(あし)は凍ってしまっている」で始まる箇所だ。丸山の「砲塁」の海と「噴水」の鳥のイメージが、北斎が描こうとしている絹布の上にある。
言うまでもなく「溟い海」は藤沢周平の出発点。老いたる北斎を主人公にした芸術家小説で、1971年に第38回オール読物新人賞を受賞し、直木賞候補にもなった。
作家はみなそうだが、先行する文学作品に多大な影響を受けている。藤沢氏の場合、エッセーで告白しているように大の推理小説ファンなので、特に海外ミステリーの影響下にある。丸山薫と「溟い海」のような自作解説はほとんどなく、海外ミステリーの専門家でないと見えにくい部分があるが、リチャード・スタークの悪党パーカーものに代表される強奪小説(ケイパー)と「闇の歯車」(77年)、チャンドラーやロス・マクドナルドの私立探偵小説と彫師伊之助捕物覚えシリーズの「消えた女」(79年)、ローレンス・サンダーズ「魔性の殺人」に代表される警察小説&サイコスリラーと「霧の果て 神谷玄次郎捕物控」(80年)、そして前回とりあげたウィリアム・アイリッシュ「幻の女」と「風雪の檻 獄医立花登手控え」(81年)所収「幻の女」には密接な繋がりがある。
中期の名作「海鳴り」にはグレアム・グリーン「ヒューマン・ファクター」の影が濃いが(詳細は「オール読物」2006年12月号の拙稿参照)、中期以降になると作風は洗練を極(きわ)め、繋(つな)がりはなかなか見えにくくなっている。
ただひとつだけいえるのは、前回のアイリッシュといい、今回の丸山薫といい、藤沢氏が持つ詩的感性である。「世界から詩を汲(く)み上げる心情と深い人間洞察の眼、それと主人公のシニカルな心的構造が釣合って一篇(ぺん)のハードボイルドが誕生する」(「小説の周辺」所収「読書日記」)とは、藤沢のハードボイルド論であるけれど、これはサスペンスの詩人と評されるウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)にもぴたりとあてはまるし、藤沢氏自身にもいえることだ。いわば藤沢氏は、時代小説の世界から詩を汲み上げる人間洞察の詩人なのである。(山形市)
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