【没後20年・生誕90年】鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問・松田静子(下) 「市井の人々」
2017年06月28日
本所、深川、小名木川、萬年橋、大川、浅草…。まだまだ出てくる市井物語の舞台。1976(昭和51)年に連載が始まった「橋ものがたり」は同じ年の「用心棒日月抄」「隠し剣シリーズ」と共に多くの読者を魅了した。「橋ものがたり」には、市井に暮らす庶民の哀歓がたっぷりと書かれ、短編のどれを取っても傑作である。例えば、第1話の「約束」。思春期から5年後、再会した男女の物語である。男は21に、女は18になり、この日に会う約束をしたのである。場所は、小名木川に架かる萬年橋の上で、時刻は七ツ半(午後5時ごろ)。5年間、一度も会わなかった2人は、大きく変化していた。
成熟した青年と女性。運命は女の子の方に過酷であった。順調に年季が明け、一人前の職人となった青年に比べ、13のあどけない少女は、身を売って病母を養う女になってしまったのである。それを恥じた女は約束の場所に行けない。2人はどうなるのだろうか。
いつの世も、思いがけない不遇な出来事に見舞われることがあるのが常であり、この少女も試練の日々を送っていたのである。読者も、自分の青春時代を思い出せば、思い通りにいかない日々に悩んだり、ほろ苦い別れがあったり、きっと共感することがあるだろう。
藤沢さんは「時代小説の可能性」(「周平独言」所収)で「時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。この不変なものを、時代小説で慣用的にいう人情という言葉で呼んでもいい」と述べている。哀(かな)しみや歓(よろこ)び、人情を「橋ものがたり」で描いたのである。その哀歓は、ご自身が経験されたことからもにじみ出ている。
教師として順調に歩き出した24歳の時に襲われた病気。肺結核の治療のために上京し故郷に戻らなかったその後の人生。藤沢さんを最も打ちのめしたのは、乳飲み子を残し、28歳という若さで病死した悦子夫人のことである。小説を書くことによってその時のつらさから浮き上がろうとした、と「半生の記」で述べている。
「橋ものがたり」には、若い女が不遇な目に遭いながらも、凛(りん)として生きる姿や、周囲の人々に救われ、幸せを得る話が多く出てくる。例えば、第9話の「吹く風は秋」もそうである。ある年老いた博徒が、逃亡していた下総から江戸恋しさに帰ってくる。深川辺りの川や橋を渡りながら本所へ行こうとするが、途中、遊女屋の薄暗い軒下で、寂しそうに夕焼けを眺めている若い女を見かけて声を掛けた。
借金を返すため、亭主と子どものいる家庭を捨てて身を売ったのであるが、この亭主がろくでなしであった。老博徒は、昔、普通の暮らしをしていたが、もらった女房が24で病死した。その当時、荒(すさ)んだ気持ちで町を歩き、幸せそうな若い女や子ども連れの若夫婦などを見かけると「気が尖って押さえられなかった」が、今は死んだ女房と同じ年ごろの女たちを見ると「みんなしあわせでなくちゃな」と思うようになった。
理不尽な事情で苦界に身を沈めたその女を、救ってやろうと危険を冒す老人。再び追われる身となり、江戸から逃げる老人の耳に、若い女の笑い声が聞こえる。「そうさ、そうでなくちゃいけねぇ」と思うのである。若くして亡くなった悦子夫人に捧(ささ)げる藤沢さんの思いでもあった。
(鶴岡市)
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