【没後20年・生誕90年】作家・高橋義夫(上) 「暗い色調」
2017年07月24日
そのころ新宿にあった酒場で、ある出版社の編集者と同席になった。編集者や新聞記者がひいきにする、小さいが名を知られた店である。藤沢周平という作家を知っていますか、と編集者に聞かれた。わたしは小説には興味を失っていた時機だから、何と答えたか覚えていないが、いずれ素っ気ない返事をしたのだろう。編集者はため息交じりに、いい作家なんですがねえ、僕は大好きなんだけど、本が売れないんですよ、と言った。その言葉と表情がなぜか記憶の底に残っている。編集者は社主に掛け合って、藤沢周平の短編集を2冊だったか出版したのだが、期待したような成績ではなかったのだという。小さな会社だから、在庫の山を抱えて編集者の立場は悪くなったらしい。
1980(昭和55)年ごろのことである。作家が「暗殺の年輪」で直木賞を受賞してから、7、8年たっている。玄人受けはするが、まだ一般の読者には魅力を発見されていない、そんな時期がしばらく続いていた。
71年に「溟(くら)い海」で「オール読物」新人賞を受け、その年の直木賞候補となって注目を浴びてから、73年に「暗殺の年輪」で受賞するまで、主に発表の場はオール読物だったが、どの作品も完成度が高く、暗い波の下から躍り出たとたんに、既に一家をなしたおもむきがあった。しかし、暗い。息苦しい。多くの読者が喜ばないのも、無理はなかった。
作家本人が世評を意識していたと見えて、初期作品の基調をなす暗さを「暗い色調」と呼んでいる。「どの作品にも否定し切れない暗さがあって、一種の基調となって底を流れている。…これは私の中に、書くことでしか表現できない暗い情念があって、作品は形こそ違え、いずれもその暗い情念が生み落としたものだからであろう」(「又蔵の火」あとがき)
後年になってからは、「作品が暗いというのは、ストーリーが暗いわけじゃないんです。書いている本人が暗いんですよ。何か世の中の全体を、善も悪も全部受け入れようというふうにならなくて、非常にかたくなな世界に住んでいるから暗いんです」とも語った(「オール読物」1992年10月号インタビュー)。この言葉は、暗さから脱出した後の、かなり過去の自己を突き放した表現である。作家として世に出たばかりのころの「暗い情念」という表現のほうが、作家の肉体に近いという気がする。
それにしても、藤沢周平さんには似つかわしくないナマの用語だが、「暗い情念」という言葉でしか言い表せない屈託が、雌伏時代の作家の内面を支配していたのだろう。それが実生活をどのように反映しているのか、詮索(せんさく)するつもりはない。
しかし、一読者としてのわたしが感じる初期作品の暗い色調、行間を締め付けるような息苦しさは、作家本人が説明している「暗い情念」や「かたくなさ」とは、少しばかり違う。
(山形市)
▽たかはし・よしお氏は1945年千葉県船橋市生まれ。早稲田大卒業後、雑誌編集者を経て執筆活動に入り、86年から本県在住。92年「狼奉行」で第106回直木賞を受賞。選考委員の一人が藤沢さんだった。近著は義光の妹で伊達政宗の母義姫を描いた「保春院義姫」、沖縄県令を務めた最後の米沢藩主・上杉茂憲の奮闘ぶりを記した「沖縄の殿様」など。2015年7月から16年末にかけ本紙に小説「最上義光」を連載。今年3月、「さむらい道(みち)」(上下巻)のタイトルで刊行された。
藤沢周平生誕90年、没後20年 記事一覧
- [12/21]【没後20年・生誕90年】早稲田大教授・高橋敏夫(下) 「生き続ける作家」
- [12/20]【没後20年・生誕90年】早稲田大教授・高橋敏夫(中) 時代小説ブームを先導
- [12/19]【没後20年・生誕90年】早稲田大教授・高橋敏夫(上) しっくりこない思いに
- [12/14]【海坂藩の風景】蝉しぐれ 旧風間家住宅「丙申堂」・鶴岡
- [12/07]【海坂藩の風景】蝉しぐれ 湯野浜海岸・鶴岡
- [11/30]【海坂藩の風景】蝉しぐれ 雷電神社・鶴岡
- [11/29]【没後20年・生誕90年】小菅先生と教え子たち(下) 萬年慶一
- [11/28]【没後20年・生誕90年】小菅先生と教え子たち(中) 大石梧郎
- [11/27]【没後20年・生誕90年】小菅先生と教え子たち(上) 工藤司朗
- [11/23]小川の辺 寒河江・慈恩寺
- [11/16]【海坂藩の風景】必死剣鳥刺し スタジオセディック庄内オープンセット・鶴岡
- [11/09]【海坂藩の風景】花のあと 玉川寺・鶴岡
- [11/02]【海坂藩の風景】蝉しぐれ 旧庄内藩主御隠殿・鶴岡
- [10/28]【没後20年・生誕90年】「父ちゃん」と慕い交流 高山邦雄「“留治さん”と父正雄」
- [10/26]山桜 白滝不動尊・鶴岡
- [10/19]【海坂藩の風景】小川の辺 馬見ケ崎川・山形
- [10/12]【海坂藩の風景】必死剣鳥刺し スタジオセディック庄内オープンセット・鶴岡
- [10/05]【海坂藩の風景】蝉しぐれ 玉川の祠・鶴岡
- [09/28]【海坂藩の風景】小川の辺 柏倉九左エ門家・中山
- [09/27]【没後20年・生誕90年】京都大大学院教授・中村唯史(下) 敗者に万感の思い寄せ
- [09/26]【没後20年・生誕90年】京都大大学院教授・中村唯史(中) 時代小説という型
- [09/25]【没後20年・生誕90年】京都大大学院教授・中村唯史(上) 作品の中の「私」
- [09/14]必死剣鳥刺し 丙申堂・鶴岡
- [08/31]【海坂藩の風景】小川の辺 不動沢・山形
- [08/30]【没後20年・生誕90年】県立米沢女子短期大副学長・馬場重行(下) 文章力を生かす巧みな構成
- [08/29]【没後20年・生誕90年】県立米沢女子短期大副学長・馬場重行(中) 生を慈しむやさしいまなざし
- [08/28]【没後20年・生誕90年】県立米沢女子短期大副学長・馬場重行(上) ことばの贈り物としての藤沢文学
- [08/24]たそがれ清兵衛 鶴岡・三軒屋の農道
- [08/17]花のあと 庄内藩校致道館・鶴岡
- [08/10]【海坂藩の風景】必死剣鳥刺し 「野沢 十一面観音」・遊佐
- [08/03]【海坂藩の風景】蝉しぐれ 羽黒山の表参道杉並木・鶴岡
- [07/27]【海坂藩の風景】小川の辺 笹谷峠・山形
- [07/26]【没後20年・生誕90年】作家・高橋義夫(下) 「習作時代の情念」
- [07/25]【没後20年・生誕90年】作家・高橋義夫(中) 「習作時代の情念」
- [07/24]【没後20年・生誕90年】作家・高橋義夫(上) 「暗い色調」
- [07/20]【海坂藩の風景】隠し剣鬼の爪 金峯神社の参道・鶴岡
- [07/13]【海坂藩の風景】山桜 手向宿坊街の路地裏・鶴岡
- [07/06]【海坂藩の風景】小川の辺 霞城公園・東大手門・山形
- [06/29]【海坂藩の風景】たそがれ清兵衛 清水の農道・鶴岡
- [06/28]【没後20年・生誕90年】鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問・松田静子(下) 「市井の人々」
- [06/27]【没後20年・生誕90年】鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問・松田静子(中) 「忍者」
- [06/26]【没後20年・生誕90年】鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問・松田静子(上) 「読んで、話して、旅して楽しむ」
- [06/22]【海坂藩の風景】隠し剣鬼の爪 赤川河川敷・鶴岡
- [06/15]【海坂藩の風景】必死剣鳥刺し 玉川寺・鶴岡
- [06/08]【海坂藩の風景】蝉しぐれ 赤川沿いのケヤキの大木・鶴岡
- [05/30]【没後20年・生誕90年】文芸評論家・池上冬樹(下) 「丸山薫の詩&海外ミステリー」
- [05/29]【没後20年・生誕90年】文芸評論家・池上冬樹(上) 「愛した『幻の女』」
- [05/25]【海坂藩の風景】隠し剣鬼の爪 桜谷神社・鶴岡
- [05/11]【海坂藩の風景】たそがれ清兵衛 松根庵・鶴岡
- [04/29]【没後20年・生誕90年】作家・佐伯一麦(下) 「海坂藩の食卓」を巡って
- [04/28]【没後20年・生誕90年】作家・佐伯一麦(上) 現代小説「早春」のこと
- [04/20]【海坂藩の風景】必死剣鳥刺し スタジオセディック庄内オープンセット・鶴岡
- [04/13]【海坂藩の風景】蝉しぐれ 旧渋谷家住宅・鶴岡
- [04/06]【海坂藩の風景】たそがれ清兵衛 鶴岡・由豆佐売神社
- [03/25]【没後20年・生誕90年】山形大副学長・阿部宏慈(下) 「藤沢周平と映画」
- [03/24]【没後20年・生誕90年】山形大副学長・阿部宏慈(中) 「藤沢周平と映画」
- [03/23]【没後20年・生誕90年】山形大副学長・阿部宏慈(上) 「藤沢周平と映画」
- [02/25]【没後20年・生誕90年】作家・佐藤賢一(下) 「悔やまれる歴史小説」
- [02/24]【没後20年・生誕90年】作家・佐藤賢一(上) 「海坂藩という発明」
- [01/28]【没後20年・生誕90年】山形大教授・山本陽史(下) 「世間」
- [01/27]【没後20年・生誕90年】山形大教授・山本陽史(中) 「水と橋」
- [01/26]【没後20年・生誕90年】山形大教授・山本陽史(上) 「農と食」