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【没後20年・生誕90年】県立米沢女子短期大副学長・馬場重行(上) ことばの贈り物としての藤沢文学

2017年08月28日
 優れた文学者に共通して言えることだが、彼/彼女たちの創り出した〈ことば〉の世界には、往々にして名句や警句といった箴言(しんげん)に値する類いのものが多い。同時代にフィットしつつ、いつの世にも共通して伝わるような、人々を説得し啓蒙(けいもう)する力を有しているという特徴がそこにはある。藤沢周平氏が遺(のこ)した作品にも、学ぶべき〈ことば〉が多く記されている。

 例えば、「私が東北の中央並みと言うのは、中央への組みこみということではない。むしろ東北の自立のことである。(略)必要なら東北に中央を取りこむということである。その逆ではない」(「老婆心ですが」)といった〈ことば〉。1982(昭和57)年の文章だが、ちっとも古びていない。東北人の気骨を物静かながらしっかり裡(うち)に秘め、中央一極集中への懸念を語って見事である。「たとえ先行き不透明だろうと、人物払底だろうと、われわれは、民意を汲(く)むことにつとめ、無力な者を虐げたりしない、われわれよりは少し賢い政府、指導者の舵(かじ)取りで暮らしたいものである。安易にこわもての英雄をもとめたりすると、とんでもないババを引きあてる可能性がある」(「信長ぎらい」)という指摘など、現今の政治状況への痛切な批判としても読めてしまう。

 「将来はコンピューターが碁を打つかも知れないが、コンピューターには最善の手は打てても、玄妙な個性までは出せないだろう」(「碁の個性」)。この見識なども、今こそむしろ耳を傾けるべき英知に溢(あふ)れている。「方言の後ろには気候と風土、その土地の暮らしがぎっしりと詰まっている。(略)地元の人は力強く方言を話そう」(「生きていることば」)といった〈ことば〉などは、方言を恥じるような姿勢に猛省を促す効果が抜群である。

 内田樹氏は「日本の覚醒のために」で、「最終的に文学作品のリーダビリティを担保しているのは作家の身体性です」「身体を通して語られる言葉は、時代を超えて、読者の身体にしみ入る」と指摘している。この「身体性」という特色は、藤沢作品においても遺憾なく発揮されている。

 ここではエッセーからのみ引いたが、もちろん小説の中にも、私たちが生きていくうえで得難い糧となるような人情味のある〈ことば〉が溢れている。何気ないごく身近な言説が、豊かな広がりと奥行きを有するよう考え抜かれて書かれているのが藤沢作品の〈ことば〉である。それらは藤沢氏が、己の生身の身体で体験した過酷な人生を通して思考し、吟味し、生み出された〈ことば〉なのである。輝くような藤沢文学の〈ことば〉の贈り物は、私たちの身体にしみ込み、心の滋養となる。藤沢文学が永く愛され続けるゆえんであろう。(米沢市)

 ▽ばば・しげゆき氏は1955年東京生まれ。二松学舎大学大学院修了。県立米沢女子短期大副学長。専攻は、日本近現代文学、文学教育。共編著に「川端文学の世界・第1巻~第5巻」「川端康成作品論集成『千羽鶴』」「〈教室〉の中の村上春樹」「ことばの杜へ」「『読むこと』の術語集」などがある。
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