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【没後20年・生誕90年】県立米沢女子短期大副学長・馬場重行(中) 生を慈しむやさしいまなざし

2017年08月29日
 小菅留治氏が作家藤沢周平となるに至った経緯にはさまざまな要因があろうが、死への近接という人生体験がそこには色濃く反映していたと考える。笹沢信氏の労作「藤沢周平伝」の「湯田川中学校の同僚・渡辺としに宛てた三十九年四月十日付手紙」には、「僕も、何ひとつ知ることが出来ないあの世(・・・)という別世界に、一人でやるのが可哀想(かわいそう)で、一緒に行ってやるべきかということを真剣に考えました。(略)あれが亡くなる前後、僕は死というものの、すぐそばまで行き、しきりに向うの世界をのぞいていたような気がします」(圏点原文)とある。亡き妻を思って自らも死の世界へと誘われゆく思いは、阿部達二氏が「文庫版のための解説」(「帰省」)で指摘するように、「海峡」という詩にもうかがうことができる。

 24歳のときに肺結核罹患(りかん)が判明、教職を辞さなくてはならないという経験を藤沢氏はしているが、希望に燃えて教壇に立った青年教師が突然、当時は死病とも言われた病を宣告された衝撃は計り知れない。しかも藤沢氏は、「私たちを見ると、先生は乱れる息をととのえながら『死ぬということは、なかなか苦しいもんですなあ』とおっしゃった。(略)間もなく医師が、先生の臨終を告げた。先生の死は、しばらく私を虚無的な気持ちにした」(「仰げば尊し」)とあるように、山形師範学校(現山形大)3年生のときに、倫理学の師だった野尻博先生を同じ肺結核で亡くしている。そもそも1927(昭和2)年生まれの藤沢周平氏は、「われわれはいずれ残らず国のために死ぬのだと思うことがあった」(「敗戦まで」)と述べるように、その思春期において死に直面せざるを得ない生を送っていた。

 「五年生になると同時に、私は奇妙なドモリになった」理由を、担任の宮崎先生によるものだと「時代小説と私」で藤沢氏は書いているが、後年の「自律神経失調症」(「啄木展」)にもうかがうことのできるこの繊細な神経の持ち主が、戦争の中で死を見つめ続け、敗戦を「喜びもかなしみもなく、私はだだっぴろい空虚感に包まれていた」(「湯田川中学」)と受け止め、そこから立ち直る過程で恩師の死に出会い、やがて、自身が同じ病に冒される。そして、「誰にも知られずに死ぬのもわるくはないと、ちらと考えたり」(「療養所・林間荘」)するような生活を経て、右肺上葉切除、肋骨(ろつこつ)5本切除という過酷な手術によって何とか一命を取り留め社会復帰を果たし、やっと就職・結婚といった人並みの生活を送ろうとしたその矢先に、「最初の子を死産で失った」(「死と再生」)という悲劇に見舞われ、次に生まれた生後8カ月の愛(まな)娘を残して愛妻に逝かれる。藤沢氏の人生の前半は、壮絶な地獄のようであった。

 藤沢文学は、「読み終えてしばらくは、人を信じてみようという気持」(井上ひさし「アンソロジーは中継駅」)を読者に与える力にあふれているが、生を慈しむそうしたやさしいまなざしの源泉に、実人生における度重なる試練があったことは胸に刻んでおきたい。(米沢市)
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