【没後20年・生誕90年】京都大大学院教授・中村唯史(上) 作品の中の「私」

2017年09月25日
 藤沢周平氏は、1993年の「大衆文学偶感」で、大衆文学と純文学のあいだには一応の別があるべきだとしている。「たのしさ、おもしろさを重視する」のが自分たち大衆文学、「むずかしくて考えさせる」のが純文学で、どちらの方向性も大切だと言うのである。どうやら氏は、純文学と大衆文学の境が曖昧になりつつあった時期にも、あえて純文学と一線を画そうとしていたようなのだ。

 純文学では、田山花袋の「蒲団(ふとん)」以降、私小説が主流だった。作家自身とおぼしき「私」が、調和的だったり逆に破滅的だったりする自分の生活や心境を語るのである。もっとも、「蒲団」には、実際には多くのフィクションが含まれていた。その後、志賀直哉、太宰治などをめぐっては、作品を通じて読者のあいだに作家個人の確固たる像が形成され、作家の側はその像に基づいてまた新たな「私」の物語を生んだ。私小説の伝統は、戦後の庄野潤三や島尾敏雄らを経て、現代の佐伯一麦や西村賢太まで脈々と続いている。

 藤沢氏はこの系譜の作家ではなかった。デビュー以来、その作中人物は作者からはっきりと分離している。「周平独言」「半生の記」「ふるさとへ廻(まわ)る六部は」などでは一人称で自分の人生や思考や身辺について書いているが、それらはあくまで回想や随筆である。小説に氏の「私」が現れることはなかった。

 しかし、それは「基本的に作者をはなれるものではなく、どう書こうと小説は作者自身の自己表白を含む運命からまぬがれないものだろう」と自身述べているように(「転機の作物」)、藤沢氏が作者の真実から離れた絵空事を書いていたということではない。「ボヴァリー夫人は私だ」というフローベールの有名な言葉は、氏の場合にも言えるのである。作者の思いは作中の誰かに仮託され、あるいは文体や作品の結構に反映している。「私」は作中にはそれとして現れないが、作品全体に遍在している。

 藤沢氏の文章の特徴は、作中の人物と世界が、その外側から距離を置いて語られていることだ。他者や世界が主人公の意識や知覚を通して語られた結果として自他の境が曖昧になったり、時空間がひずんだりといった表現は氏にはない。人物の内面の言葉も括弧で区切られたうえで、冷静で客観的な語りの中に組み込まれている。

 人物に向ける藤沢氏のまなざしが冷ややかであるというのとは違う。そのまなざしは優しく暖かいが、けっして同一化することはなく、謙虚な距離を保っているのである。

 なぜ現代を舞台にせず、時代小説を書くのかという問いに対して、藤沢氏は「時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なもの」を書きたいからだと回答したことがあるが(「時代小説の可能性」)、今ひとつ説得力を欠いているように思う。それならば現代を舞台にしても書けるはずだということにはならないか。制約が多い時代小説という分野に藤沢氏がこだわった本当の理由は、このジャンルの強固な型枠をはめることで、自分の主観や情念を野放しにしないためではなかったかと思えるのである。

(滋賀県大津市)

 ▽なかむら・ただし氏は1965年札幌市生まれ。京都大大学院文学研究科教授。2015年3月まで山形大人文学部(現人文社会科学部)教授。東京大大学院修了。専門はロシア文学、比較文学。共編著に「再考ロシア・フォルマリズム」「映像の中の冷戦後世界」他。翻訳にトルストイ「ハジ・ムラート」、バーベリ「オデッサ物語」、ペレービン「恐怖の兜」など。本紙「〈ことば〉の杜へ」筆者。
藤沢周平生誕90年、没後20年 記事一覧
文字サイズ変更
  • 小
  • 中
  • 大

県内7市発行メールマガジン登録無料

ふるさとだより

毎週木、金曜日配信中!

ニュース特集

スポーツ

教育・子育て

おでかけ

暮らし情報

twitter発信中

山形新聞からお知らせ

  1. 【2018年8大事業】
     山形新聞、山形放送の2018年の8大事業が決まりました。詳しくは、こちらから
  2. 【やましん公式FB】
     山形新聞社は、インターネット交流サイト「フェイスブック(FB)」の公式ページを新設しました。
     公式ページでは山形新聞のニュースのほか、本社からのお知らせなどを中心に紹介します。
     アドレスは、こちらから
  3. 【やましんe聞で動画視聴】
     読者限定の電子版「やましんe聞」で動画を閲覧できる新サービスを始めました。詳しくは、こちらから。
  4. ◆中学、高校の各種スポーツ大会の記録を紹介。検索機能も備えています。アクセス方法はこちら
  5. ◆探したい記事がきっと見つかる、山形新聞記事データベース。他社DB横断検索が便利な日経テレコンジー・サーチファクティバ
  6. ◆県外でも今日の朝刊が朝一で読める「お届け電子版
  7. ◆ニュース速報、高校野球、モンテ情報、おくやみ… 身近な情報を携帯で確認「モバイルやましん
  8. ◆故郷の話題をメールでお届け、ふるさとメール会員募集(登録無料)
山形新聞から
販売から