【丁卯の大獄】維新まで

 藤沢さんの作品で、時代小説にしろ歴史小説にしろ、明治維新以降に時代を設定しているのは歌人・長塚節を扱った『白き瓶』、最初で最後の現代小説といわれる『早春』ぐらいであろう。ほとんどは江戸時代の範囲を越えない。そして、戊辰戦争を含む維新前後の荘内藩をイメージさせる作品もまた、見当たらない。早莽(そうもう)の志士清河八郎の生涯をたどった『回天の門』は、文久三(一八六三)年四月で幕を閉じる。時代小説家らしいけじめというべきか、あるいは明治という時代に特別のこだわりがあったのか…。

 荘内藩の幕末から明治にかけての歴史を繙(ひもと)く時、避けて通れないのは藩による江戸市中警備、長州藩邸接収の任、丁卯(ていぼう)の大獄、つまり大山庄太夫の一件、薩摩屋敷の焼き討ちと奥羽越列藩同盟で戦った戊辰戦争、旧藩士による松ケ岡開墾事業などである。

 時代小説の素材を、庄内のこうした微妙な時代の大きな節目から拾い上げている事例はあるが、真正面からこの時期の史実を取り上げた作品はない。例えば、『岡安家の犬』に登場する隠居の十左衛門の、犬のけんか好き。これは、長州藩邸接収の任に当たった荘内藩の重臣の性癖として史料に記されている。松ケ岡開墾事業とイメージが重複する太蔵が原開墾の『風の果て』は、時代を藩政時代に遡らせて設定している。戊辰戦争に至っては、その入り口のところで終わっている作品もある。

 そうした中で、庄内地方で長く言及することがタブーとされてきた丁卯の大獄とおぼしき事件を扱った作品がある。奥羽越列藩同盟についても最後の二行で触れている。藤沢さんにしては珍しい作品であろう。「別冊小説新潮」昭和五十年冬季号に掲載された『十四人目の男』である。

 この作品からは、地元・庄内に対する藤沢さんの細心の配慮がうかがえる。大獄の概要を巧みに変え、作品の筋書きに採用している。わざわざ荘内藩を隣藩として登場させ、舞台となっている「粟野藩」とは一線を画しているのである。藤沢さんが維新前後の庄内を書きたがらない理由の一端が、この辺にあるのではないかと推察されるのである。

 庄内の歴史の中で、丁卯の大獄を通過しなければ、戊辰戦争、明治維新そしてその後の庄内は語れないのである。その意味では、作家としてのデビュー数年を経た初期の作品での意欲的な挑戦であったに違いない。その結果としてやはり、その後の藤沢さんは維新を踏み越えていないのである。

 粟野藩は、隣藩・荘内藩とともに徳川譜代の大名で、外様・秋田藩に対する北の守りを国是としてきた。主人公・神保小一郎は青年組の調練で一隊を率いる藩士である。この年、京都では禁門の変が起こり、幕府は諸藩に長州征討の触れを出していた。調練にはゲベール銃を使った。友人の八木沢兵馬は七十石の家督を継いで小姓組に出仕している。同居している小一郎の一つ年上の叔母・佐知は藩内の上士藤堂家に三度目の嫁入りをしていた。婚家の夫に二度とも死なれている不幸な女性である。

 藩内は、譜代ではあっても勤皇と佐幕の両派があり、藩の上層部を巻き込んで動きが急を告げていた。慶応三年、藩を揺るがす事件が起きる。次席家老以下十三人とその家族が斬罪の処分を受けたのである。その中に、佐知が嫁いだ藤堂家も入っていた。

 調べを進める小一郎の前に、次々と意外な事実が浮かび上がる。処分された一派は、家康公から感状を受けた密盟の家柄で、徳川家への忠誠を誓う組であった。当然、佐幕であり、藩内の勤皇一派を襲う計画を立てていた。計画が露呈しそうになって、生き残りをつくるため、組の一人を密告者にしたて、大目付に申し出たのである。密告者こそが感状組の生き残り、十四人目の男となる。それが小一郎の友人・八木沢兵馬であった。藩は官軍方と密約を結ぶ方向に動き、仙台にいる奥羽鎮撫総督九条道孝の使者が城内に入り、馬を降りて歩いてくるところを兵馬が一太刀で切り倒す。そして、兵馬に頼まれた小一郎が、“乱心”として兵馬を切る。これで、藩は官軍に組みすることはないだろう…。兵馬の読み通り、粟野藩は奥羽越列藩同盟に正式に加盟する。

 作品の筋書きを大雑把に紹介したが、幕末から明治にかけての庄内がどんな歴史をたどったのか、丁卯の大獄を含めた時代背景を『鶴岡市史・上』『「庄内藩』(斎藤正一著、吉川弘文館)などから拾ってみよう。『十四人目の男』の筋書きを念頭に置きながら…。

 幕末の荘内藩は、三方国替えを乗り越え、藩主忠器(ただかた)は天保十三(一八四二)年に隠居する。その時の藩執政の陣容は家老が松平甚三郎、酒井奥之助、水野内蔵丞で中老は酒井玄蕃(げんば)(後に右京)、竹内右膳、松平舎人(とねり)であった。両酒井は、両敬家と称され、先祖をたどれば藩主家につながる。忠器の重職に対する信は厚く、隠居後も影響力を駆使する。家督を継いだ忠発(ただあき)と重職の間には大きな溝があり、即位直後に藩主廃立運動を起こしたが発覚する。その運動に暗躍したのが江戸留守居役の大山庄太夫である。忠器の内意を受けての行動、とみる郷土史研究家もいる。

 忠器と忠発の対立は、朝廷に対する忠誠が強い父の心情を、譜代としての佐幕的な考えが強い息子が理解できなかった、というところにあったようだ。当然、幕末のことであり、藩内も公武合体と佐幕とに分かれていく。両酒井、松平、大山らは公武合体派であり、佐幕派の藩主交替を画策していた。世子を巡る暗闘はその後も続き、荘内藩はまさに内憂外患の形で幕末の混乱期を迎える。

 幕府の譜代として藩は、薩摩、長州による市中騒乱の江戸警備を命じられ、組頭松平権十郎を派遣する。権十郎は中老に進み、新徴組御用掛となる。この頃、庄内の生んだ志士・清河八郎が暗殺され、庄内にも来て勤皇思想を広めた国学者の鈴木重胤が刺殺されている。

 その頃、江戸留守居は菅實秀であった。松平権十郎らとともに長州藩邸接収の重責を担った。そして、この二人がその後の藩の実権を握り、幕末の荘内藩を引っ張っていく。二人は、忠発の三男・幼主忠篤(ただずみ)を擁し、佐幕派としての藩の方向を確固たるものにしていった。

 幕府の第二次長州征伐失敗は、佐幕一辺倒でやってきた松平、菅らの主流派にとって大きな打撃であった。藩内に政策批判が起こることを恐れ、改革派、つまり公武合体派の一掃に着手する。酒井右京、松平舎人、大山庄太夫、服部毅之助、赤沢隼之助、加藤五三郎、池田駒城、国学者広瀬巌雄、医師日下部宗伯ら十五人が逮捕、監禁、謹慎などとなった。大山は自宅監禁の最中に自殺したが、処分が出るまで死骸の埋葬は許されず、足軽の監視のもと塩漬けにして庭に仮埋めにされた。加藤も逮捕前に自殺している。

 断罪は慶応三(一八六七)年に行われ、処罰は家族や親類にも及んだ。摘発以前に死亡した改革派の藩士にも追及の手は伸び、遺族が処分を受けた。まさに改革派絶滅の処断であった。元家老で改革派の首領・酒井右京は鶴岡市新海町の安国寺本堂で切腹した。事件に関与した後裔は、佐幕、改革派ともに庄内地方に現存している家系が多い。

 荘内藩はその後、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の柱として戦い、精鋭の荘内軍は連戦連勝したが、征討軍の黒田清隆参謀のもとに降伏した。

 話を元に戻せば、藤沢さんの作品では、弾圧される側が佐幕派であり、弾圧する側が勤皇派である。丁卯の大獄は、佐幕派が公武合体派の改革派を処断している。しかし、作品での事件発生は慶応三年で、これは丁卯の大獄の摘発開始の年と同じに設定している。作中の首席家老・石黒権十郎は当時の荘内藩の家老・松平権十郎と名前が同じである。

 史実とは似て非なる筋書きの展開だが、非なる部分の苦労がうかがわれる。維新前後の庄内を舞台にした時代小説が藤沢さんにはほとんどない、というのは郷里への配慮がどうしても働く、ということだろう。そして、明治という時代は他の作家にまかせ、自分は江戸時代に止まることで潔しとしたのではないか。

続・藤沢周平と庄内 ふるさと庄内

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