【熱い光】移ろいの描写

 藤沢周平さんの作品にみられる幾つかの特徴、具体的にいえば「セミ」や「霧」の、作中での効果を紹介してきたが、ほとんどの作品に必ず出てくる描写というのがある。「光」である。日差しの強弱、陰影、朝や夕の、日が傾いた情景、照らし出される町や村のたたずまい…。藤沢作品の真骨頂であろう。

 光の描写で対照をなす二つの小説を紹介する。

「蝉しぐれ」の主人公・牧助左衛門は、馬でクロマツの林から熱い光の中に走り出た
「蝉しぐれ」の主人公・牧助左衛門は、馬でクロマツの林から熱い光の中に走り出た
「助左衛門は林の中をゆっくり馬をすすめ、砂丘の出口に来たところで、一度馬をとめた。前方に、時刻が移っても少しも衰えない日射しと灼ける野が見えた。助左衛門は笠の紐をきつく結び直した。

 馬腹を蹴って、助左衛門は熱い光の中に走り出た」。

『蝉しぐれ』の最後のくだりである。藩の世継ぎをめぐる暗闘に巻き込まれ、苦労の末に解決する。今は郡奉行に出世した助左衛門が、かつての恋人で藩主お手付きとなって子を産み、尼寺の庵主(あんしゅ)になろうとしている「お福の方」に会ってきたばかり。その帰り道である。

「熱い光」には、助左衛門を待ち構えているであろう厳しい現実と、それでも生きていかなければならない人間の宿命みたいなものが象徴されている。一方では生の輝き、生きる希望といったものが馬上の助左衛門に降り注いでいる。『蝉しぐれ』が、代表的な青春小説であるというのは、最後のくだりからも納得できよう。

 貧窮にあえぐ米沢藩を舞台に、上杉鷹山と執政の私(し)を越えた藩政建て直しを描く、藤沢さんの遺作『漆の実のみのる国』。最後に近いくだりに、次のような描写がある。やはり光を描いている。

「文政五年、鷹山は池のほとりに出て、一月の日の光を浴びて立っていた。一月の光はか弱く、風はなかったが、光の中に冷やかなものがふくまれていた。冬の日の冷たさである」。

『蝉しぐれ』の「熱い光」に比べ、何とか弱く冷たい一月の日の光であろう。鷹山は前年の十一月、糟糠(そうこう)の“妻”お豊の方を失っている。その欠落感は大きい。鷹山の心情を描き出しているが、ここには藤沢さんの光の描写の凝縮があり、鳥肌が立つほどの冴えがある。一方で、晩年を迎えた鷹山の「胸の中に巨大な穴が空いている感覚」(『漆の実のみのる国』)の寂蓼(せきりょう)は、作家・藤沢周平の胸中に去来する人生の終えんを迎えることの寂しさと重複するように思えてならない。藤沢さんは、その一月に亡くなった。

 二つの作品は、光の描写で好対照をなすが、時代小説では夕暮れ、つまり暮れ六ツ(午後六時)ごろと明け六ツ(午前六時)ごろの描写が圧倒的に多い。

 庶民の生活は明け六ツごろから、暮れ六ツごろまでの、いわば明るい時間帯に限られていた。こうした始まりと終わりの時刻を描くことで時代背景がより鮮明になり、市井(しせい)の雰囲気が伝わってくる。下級武士や市井の庶民を好んで描く時代小説家としては、この時刻の情景描写に特にこだわったはずである。

 朝夕であれば、当然日の光は傾いてくる。千変万化の移ろいが地上にはある。その描写が作家の力量ということだろう。

 前回の「霧」の項で紹介した『蝉しぐれ』の冒頭部分にある田園風景は、早朝の光で霧が赤らんでいる。作中、早朝の光には明るい未来や生きる希望が込められているように思われる。その光が、「不安」や「波乱」を暗示する霧に射す。こうした要素の交錯は、複眼的に物事を見る作家・藤沢周平の得意とするところである。

 とっておきの一文がある。

「水面にかぶさるようにのびているたっぷりした花に、傾いた日射しがさしかけている。その花を、水面にくだける反射光が裏側からも照らしているので、花は光の渦にもまれるように、まぶしく照り輝いていた」(『花のあと-以登女お物語-』)。

 多分、鶴ケ岡城であろう、二の丸の濠(ほり)沿いの、桜見物の描写である。

 初恋の相手の仇討ちを成し遂げる以登女(いとじょ)の物語。花と光には、女の青春が託されている。盛りの桜に射す光は、人生の明るい未来への予感を抱かせる。射す光は上からも、そして水面の反射光で下からも照らす。恋心を抱く以登女は光輝く生にあふれて春らんまんなのである。

続・藤沢周平と庄内 ふるさと庄内

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