【釣りと鳥刺し】家中の鍛錬

 藤沢さんの作品には、釣りと鳥刺しがよく出てくる。この二つは、家中の心身の鍛練のために藩が奨励した、という説明がついたりもする。

 荘内藩はまさに、享和二(一八〇二)年、忠器(ただかた)公の時代に磯釣りのための「遠足」を奨励する御触書を藩内に出している。城下から海や山に出掛けるには、三里、四里の道程を歩かなければならない。夜釣りや朝釣りのためには、暗いうちから家を出る。肝試しの精神修養にもなろう。特に、家中の釣りの風習は、荘内藩ならではの歴史と伝統を持つのである。

磯釣りの伝統は荘内竿を生んだ(致道博物館)
磯釣りの伝統は荘内竿を生んだ(致道博物館)
『三屋清左衛門残日録』には、その磯釣りの情景が細かに描かれ「百姓のように蓑(みの)を着て、足に藁(わら)はばき、手には手甲(てっこう)をつけて…」(「零落」)という江戸時代の釣りの姿が描写されている。こうした釣り人の姿は明治、大正時代まで続いたようである。そして、その時代の鳥羽絵を残した土屋鴎涯(つちやおうがい)の『土屋鴎涯戯画磯釣』には、同様の風体の二本差しの姿も描かれている。

 荘内藩主の領内・温海温泉湯治から始まった庄内の釣りは、武士の心得の一つとして受け継がれてきた。

 庄内竿(ざお)の完成者といわれる陶山(すやま)運平は、先の「赤い犬」の項で紹介した陶山七平(稿木・釣りの指南書『垂釣筌(すいちょうせん)』の筆者)の弟である。庄内竿つくりの名人・丹羽庄右衛門は士分であり、酒田の合わせ竿つくりの達人・平野勘兵衛は荘内藩の弓師であった。こうした庄内竿つくりの伝統は明治の上林義勝、中村吉次、大正、昭和の山内善作へと続いていく。

 幕末から明治にかけ、荘内藩の御家禄総帥といわれ、混乱の時代の荘内藩を指導した菅實秀(すげさねひで)(号・臥牛)は、『臥牛先生遺教抄』(致道博物館刊)の中でよく釣りの話を紹介している。釣りに例えて人生訓、精神訓話を垂れているのである。例えばこんなくだりがある。「波渡の漁夫・藤平は『釣りは一度竿をぶっこめば魚を獲るまで止(や)めぬものぞ』と言う。(中略)この言は根本にして、道を学ぶ者の第一なくてはならぬ事なり」。

 それだけ釣りが、家中に親しまれ、日常生活に深く溶け込んでいたことを示している。藩中の釣りは磯釣りでも、川釣りでもよかった。しかし、鶴岡において釣りというのは、庄内浜の磯釣りを指した。例外的に、藤沢さんの『三月の鮠(はや)』という作品に川釣りが登場する。ここではこんな説明をしている。「藩では非番の家中と家中の子弟に、鳥刺しと釣りを奨励する。釣りは海釣りでも川釣りでもよい。つまり山野を歩いて足腰を鍛えろというわけだろう」。

 この場面は話の筋の展開からして、川釣りでなければならない。藩の政争で一家皆殺しの目にあった武家の娘が、生き延びて川の上流の神社に隠れ住んでいる。川釣りで足を延ばし、この村に来た主人公・窪井信次郎は、社の境内でこの娘と出会うのである。

 青龍寺川をさかのぼった金峯山のふもとにある青龍寺、あるいは小菅家の菩提寺・洞春院を彷彿とさせる。

 藤沢さんの作品に出てくる家中の釣りには、二百年近い荘内藩の釣りの歴史が背景にある。

 鳥刺しはどうであろう。作品には、鳥刺しに行く、というくだりはあるが、具体的な描写というものがない。例えば『三屋清左衛門残日録』では、隠居後の楽しみとして鳥刺しが出てくる。『臍(へそ)曲がり新左』では、主人公・治部新左衛門がよく鳥刺しのため「伊波山」に入る。この山は鶴岡市南郊の金峯山をイメージさせるのだが、どのようにして鳥を捕まえるのかまでは紹介していない。

 極めて現代的な解釈をするならば、小鳥を捕獲する、それも鷹狩りのために飼っているタカのえさや人間が食べるためにトリモチを使って野鳥を捕るというのは、どうみても残酷である。自然保護、野生生物保護の社会風潮に反してまで、事細かに描写する必要があるのか、ということである。具体的な描写がない、というのは、そうしたためらいがあったということだろう。

 庄内には、軍学者・秋保政右衛門親友(ちかとも)が幕末から明治の初めにかけ、約六十年間にわたって記した『野合(のあい)日記』というのが残っていて、釣りや鳥刺しの成果を克明に紹介している。

 前述した『垂釣筌』には、魚や鳥には季節、気運というものがあったが、今は鳥や魚をもって季節の徴(しるし)とすることができなくなり、鳥は五十羽もとれない、と嘆くくだりがある。アオジは、穀雨(こくう)(四月二十日前後)三日に群れをつくり、立夏(五月六日前後)には百鳥地を払うの観があったという。鳥刺しの獲物だったようである。

続・藤沢周平と庄内 ふるさと庄内

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