【ひこばえの風景】農家の次男の思い

 藤沢さんの多くの作品には、土や農作物の素朴なにおい、農家の生活、農村風景などが描かれている。そうしたものは時代小説や歴史小説の重要な舞台背景になっており、藤沢作品を特徴づける描写ともなっている。あるいは、エッセーの中に登場するおびただしい古里の思い出からは、作家の土着性が強くうかがえる。晩秋の田に生える、ひこばえにも似た郷愁がしのばれるのである。

 藤沢さんが育った時代、庄内、特に農村地帯の労働観というものがどんなものであったか。敗戦直後、鶴岡市の上郷地区に疎開していた作家の横光利一が、透徹した目で分析している。「村で働きがないと言われることは、都会のものが感じるよりも、幾そう倍の侮辱になる、という衝撃については、甚だ残念ながら手落ちはこちらだ」(『夜の靴』)と書いている。

 農家の人々が、朝は日が昇らないうちに家を出て、暗くなるまで働くことをさも当然のようにしている農村の風景を、興味深く記している。

 昭和二十年、上郷地区の人々の考え方は、そっくり黄金地区の農家の考え方とみていいだろう。農家の次男として、稲作の節目節目に手伝いをした小菅少年(藤沢さん)の姿が容易に想像できる。

 藤沢さんの「水争う兄を残して帰りけり」や「花合歓や灌漑溝みな溢れおり」などの句は、そうした農業を営む側の感性がよく出ている作品であろう。干ばつでは深刻な水不足に心を痛め、雨が降りやまぬ空を見上げては、その年の稲の出来具合を心配する…。そして、当然すぎて、働くという認識がないほどに、よく働く必要があった。それが農家であったのだ。

 その延長線上に、青年教師・小菅留治先生から小野寺茂三さんへの手紙にある「労働者観」が出てくる。「働かない者こそ軽蔑されてよい。(中略)生徒に労働を尊敬するよう教えるのが本当の教師だろう」としている。ここには、当時の農家の倫理感さえ漂っている。

 藤沢さんほど、農の心が作家の体質として残った例は、他にないのではないか。やはり少年時代から青年時代にかけて所属し、集会にも顔を出した「荘内松柏会」の影響があったからであろう。さらには、農家の次男としての在り方を模索した時代を経ているからではなかろうか。

 山形師範時代の友人の一人・小松康祐さん(70)=松山町=はかつて「藤沢さんとは、『おんちゃたるものは助(す)けるもの』という農家の理想について語り合ったものだ」と述べている。おんちゃ、というのは次男、三男のこと。農家の次男、三男は両親や総領の兄を助けるものだ、というモラルである。戦後の混乱期に、それまでの道徳、常識の検証をしているのである。敗戦を機に価値の再編みたいなものがあって、それぞれが価値観の構築を迫られていた時代でもあったようだ。

 藤沢さんの土着性は、生まれ育ったところが庄内であり、鶴岡であり、黄金である一方、農家であり、そこの次男(おんちゃ)であり、さらには結核を患って教職を二年で辞めざるをえなかったという境遇から来ているように思える。

 遅い作家デビューではあったが、全集にして二十三巻。これほど膨大な作品を世に残し得たのは、強烈な、小説を書く動機と、持って生まれた才能、そして農家に伝わる、身を粉にして働くことを厭(いと)わない倫理観、その倫理観と表裏一体ともいうべき土着性があったからではないか。

 作品を、一つとしてゆるがせにしない作家としての姿勢は、最後の『漆の実のみのる国』まで貫徹される。

 代表作の『蝉しぐれ』や『風の果て』『漆の実のみのる国』などに見られる田園風景、百姓への温かいまなざし、稲の開花や穂ばらみ、登熟期を描く精妙な筆致は、作家の土着性と不可分のものであろう。

 例えば、上杉治憲(鷹山)が領内巡視で目にした稲の出来具合には、かつて抱いたであろう農家の次男としてのさまざまな思いが込められている。

 時代小説や歴史上の人物を描くジャンルに踏み出していった藤沢さんは、生まれ育った庄内や鶴岡の農の心を描くことに何の抵抗も支障もなかったことであろう。作品を書けば書くほど、気持ちは古里へと向かい、そして自らの土着性に強い誇りと自信を持ったのではないか。

 庄内平野はいま、ひこばえが野を覆っている。厳しい冬へのつかの間、青々とした平野はあたかも早苗の時期を思わせるのである。

続・藤沢周平と庄内 はるかなる藤沢周平

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