【松柏歳寒の心】右手に論語、左手に鍬

 藤沢周平さんが旧制中学夜間部に在籍していたころ、それまで勤めていた鶴岡印刷をやめ、旧黄金村役場で働くようになったことを後年、エッセーに書いている。当時の役場助役から請われて税務課の仕事に就いたということ、さらにはそこでの生活が論語を読む雰囲気であったことも記している。作家・藤沢周平を知る上で欠かせない軌跡の一つが、実はこのころから始まる。

 昭和十八年、小菅留治少年は十六歳であった。この年の六月、小菅さんは鶴岡市に本部を置く「荘内松柏会」の会員になっている。会員名簿に右肩上がりの元気のいい筆字で「昭和十八年六月二十九日 高坂 小菅留治 昭和二年十二月二十六日生」と書いている。松柏会とのつながりはこの後五十三年、つまり亡くなるまで続くことになる。

 それでは、この「荘内松柏会」というのはどういう団体なのか。平成元年発行の『荘内松柏会五十年の歩み』を基に紹介してみる。

 会の発足は昭和十一年。当時の日本農士学校検校で篤農協会理事の菅原兵治氏の命名でスタートした。「歳寒して然る後松柏の後に凋(しぼ)むを知る也」という論語の一章から取った。春暖夏陽の季節には他の木や花々が目立つが、寒くなってくるにつれ松や柏(ここでは冬でも落葉しない本柏を指す)が気品を持って現れるというのである。松柏歳寒の心は、藩政時代から鶴岡に伝わる郷学の教えであり、風格であった。菅原氏は庄内の心を熟知してこの言葉を贈ったのである。

 会では教科書の選定を、旧藩主酒井家に依頼する。藩校・致道館がはぐくんできた荘内郷学を明治、大正、昭和と受け継いできたのが酒井家だったからである。それが和紙つづりの「論語抄」である。会員は右手に論語-人間学、左手に鍬(くわ)-稲作技術、を学ぶことになる。鶴岡市史下巻には、「この会は稲作を始めとする農業技術の研究や良種子の配布など、農の発展に努める一方、儒教の勉強を通じて人づくりに努力した」とある。

 藤沢さんのエッセーに、役場の昼休み、ストーブの周りに集まって「論語抄」を勉強する光景が述べられている。

 この時の「論語抄」は恐らく、「荘内松柏会」の教科書であろう。ちなみに昭和二十一年の会員は九百九十人で、会員は庄内一円にわたる。黄金村の会員は藤島に次いで多く、百二十五人であった。鶴岡はわずか二十五人。黄金村ではいかに農と学の風土が強かったかがうかがえる。

 小菅少年はこのころ、松柏会の集会にも出席している。酒井忠悌氏の「論語」や菅原兵治氏の「学記」の講義などを聴いている。

 その黄金村で助役をしていて、松柏会の幹部でもあったのが新山の高山正雄さん(86)であった。小菅少年は、高山さんの自宅をよく訪れ、「その書斎で、私は日本歴史から始めて、北畠親房の『神皇正統記』、山鹿素行の『中朝事実』、『武教小学』、吉田松陰先生の『講孟餘話』(改題)、橋本左内の『啓発録』などという学校ではあまり習わない本の話を聞き、また松陰先生や橋本左内の人物についての話を聞いた」(「松柏」平成二年四月号)という。

 山形師範に入って、髪を伸ばしたいと手紙を書き、高山さんの許しを得て長髪にした、というくだりもある。父にも似た恩師であったようだ。

 旧制中学夜間部から師範時代といえば、少年から青年への移行期。恐らく、師範に入ったのも、高山さんから熱心に説かれた吉田松陰の影響があったと思われる。そして、後年になって江戸時代の儒学者・新井白石を主人公にした『市塵』という歴史小説を書くということに、やはり背後に「荘内松柏会」や高山さんの強い影を見てしまうのである。

 藤沢さんのイデオロギーについての姿勢は既に書いた。どちらかといえば、革新的とも言える思想ではあった。しかし、作品の多くに儒教的な、そして国学的な響きがあるのも否定できない。俗っぽい言い方をすれば、「左」と「右」である。藤沢さんには、こうした振幅の大きさがある。

 強いていうならば、最初に人間としての誠実さがあり、それを具現しようとする時、道徳的、倫理的あるいは思想的な行動が伴うということではないだろうか。

 知人や多くの友人が語る藤沢周平像は、自己を厳しく律し、人には優しい、という共通点がある。温和な気質の一方で、筋の通ったものが一本その基底にある、ともいう。

 色紙に見られるような人生の求道者的姿勢、つまりは儒教的な心の部分は、古里・黄金地区に残る「松柏歳寒の心」であり、それは農と学の風土によって育まれたものではないか。

続・藤沢周平と庄内 はるかなる藤沢周平

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