【あとがきに代えて】やさしく読者に語りかける人

 『三屋清左衛門残日録』の「白い顔」の章に出てくる庚申堂はどの辺にあるんでしょうか……。鶴岡市を訪れた藤沢ファンから、そんな質問を受けた。前作の『藤沢周平と庄内』(ダイヤモンド社)が縁で手紙をやり取りしているうちに、ぜひ「海坂藩」を、とはるばる関東圏からやってきた老婦人の、控え目に切り出した言葉である。その時、ぐっと詰まり、明快な返答ができなかったことが悔やまれる。調べてみればこの疑問は、庄内地方を特徴づける光景を的確に指摘しているからである。

 『三屋清左衛門残日録』のこのくだりは、次のような情景である。

 若かりし頃の清左衛門が支藩に使いに行き、帰途、美貌の女性に同行を依頼される。道中、突然の雷雨に見舞われ、雨宿りしたのが村外れの庚申堂である。三猿を刻んだ石像が置いてあるだけの狭い祠(ほこら)。そこで二人は雷雨が通り過ぎるのを待つ。波津というこの女性は雷鳴にはっと叫んで清左衛門の肩に顔を埋める。波津は「主ある花」、つまり許嫁の身である。しばらくの抱擁。雷雨が去り、清左衛門は「一切口にされぬ方がよろしいかと思う」と言って別れる。ただ、それだけのことであるが、三十年前のこの光景が清左衛門の胸に鮮やかに残っている。

 祠に安置されている「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が心憎い効果を上げている。

 確かに、庄内地方にはこうした祠が多い。田圃の中の集落の外れに、松や杉の老樹に囲まれてポツンとある。社の前には庚申塔がほとんど例外なくあって、作品の雰囲気は、この地においては実にすんなりと入ってくる。ただ、厳密にいうならば、多くの祠は庚申堂とは限らない。

 この祠について元鶴岡市文化財保護審議会委員の故日向文吾さんは『庄内のうまいもの』の中で「庄内平野のこころ」という一項目を立て、次のように書いている。「私達はこの平坦な田圃の中に、所々に松や杉を植え、小さな祠がまつられてあるのを見る。ある学者の説によると、これが庄内平野の祭祀の特色で、全国的に非常に珍しい土地柄であるという。これらの祠は田の神様であって、開拓者の魂がこもっているものだともいう」。

 「白い顔」で清左衛門と波津が雨宿りしたのは、庄内平野に点在する、そうした名もない祠の一つであろう。

 男女の秘め事が生まれる場所として藤沢さんは、この祠と同じように「お籠り堂」を登場させている。『邪剣竜尾返し』である。前作の『藤沢周平と庄内』でも紹介したが、主人公・檜山絃之助が罠(わな)にはめられる場所である。つまり、妖剣を遣う赤沢弥伝次の妻女は、ここで絃之助を籠絡する。

 「赤倉不動尊」の「お籠り堂」は、その情景描写から鶴岡市の金峯山中腹にある金峯神社の中の宮周辺をイメージさせる……と前作に書いた。しばらくして、鶴岡市内の藤沢ファンから次のようなご指摘をいただいた。「金峯山の南麓に『藤沢不動尊』というのがある。ここは八月二十七日に夜籠りをして二十八日は護摩焚き修法の大祈祷が行われる。湯田川温泉から一キロちょっとに位置し、藤沢さんは湯田川中学で教えていたころ、この不動尊のことを知ったのではないか」というものであった。作品にあるように、夜籠りで「気ままにむつみ合う」風習があったかどうかは定かではない。

 急峻な谷間に開けた台地に堂が立っており、いずれも樹齢百年以上の杉の大樹があたりを覆う。作品の雰囲気からすると、やはり舞台はこの藤沢不動尊であろうか。

 藤沢さんが庄内にこだわり、作品で繰り返し紹介するというのは、そこが故郷であるという理由だけだろうか。本文でも触れたが、庄内の風土に原日本的な要素が色濃く残っているように思える。藤沢さんの精神が古里に向かうというのは、そうしたものと向き合うことでもある。

 かつてこの地に横光利一が疎開して住み、その後、森敦が鳥海山の麓(ふもと)や月山の山懐にある注連寺で暮らした。横光は『夜の靴』を、森は『鳥海山』『月山』のいずれも傑作を書いている。

 作品には鶴岡市上郷や朝日村大網の、その当時の生活や人間模様が描かれている。濃密な庄内弁を話す地元の人々……。鳥海山や月山は単なる山ではない。森が遊佐町や朝日村に住んだのは、鳥海山や月山の「本然の姿」を究めたいという強い欲求があったのではないか。つまりは、庄内の霊気、あるいは地霊といったものの本質を、その奥深くまで入り込んで捉えようとしたとも言える。

 松尾芭蕉が月山や湯殿山に分け入り、羽黒山に逗留して秀句を詠んだのに似ている。

 藤沢さんが古里と向き合い、庄内の風景や風土を描くことは、とりもなおさず古来多くの文人を引きつけて止まなかった庄内という地域に内在する原日本的な要素、あるいは霊気といったものを、ごく身近なものとして紹介することでもあった。普遍的なものとしての風土が、この作家をして故郷にこだわらせたともいえよう。

 藤沢さんは多作だが、一つとして手抜きの作品はない、といわれる。本文で、それは庄内の農家に伝わるきちょうめんさと無縁ではなく、作家の土着性に通じる、と書いた。

 先に引用した日向文吾さん『庄内のうまいもの』の「庄内平野のこころ」にも次のような一文が見える。「庄内の農家の人々は稔りの秋になると、稲の中に生えた稗(ひえ)の草を一本一本ていねいに抜き取る。(中略)これは稲を作る心構えが違うので、庄内の農家の心の中には、田の神をまつった開拓の魂がいまだに脈々と息づいているのであろう」と。庄内の農家に受け継がれているきちょうめんさは、開拓の魂であるとしている。

 少年のころの藤沢さんは、家や学校ではもちろん「学校の行き帰りも本を読んでいた」と地元の友人たちは証言する。そして、恐らく作家を目指したころであろうか、食事を済ますと小さな木箱の机に向かい、せっせと小説を書いていたという。とりつかれたように本を読み、そして小説を書いていったのではないか。

 幕末から明治にかけての荘内藩に、御家禄総帥と言われる菅實秀(すげさねひで)がいた。「臥牛(がぎゅう)」と号し、その訓話が「臥牛先生遺教」として残っている。特に若者向けの精神訓である。その中で漁師の「釣りは一度竿(さお)をぶっこめば魚を獲(と)るまで止めぬものぞ」との言葉を引用して、「何ごとも、やり始めた以上は、成しとげるまで止めないものだ」と説いている。これは九代米沢藩主上杉治憲(鷹山)の有名な遺訓「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」にも通じる。

 藤沢さんが育った庄内地方は、そうした精神風土が残る土地柄でもあった。

 山形師範学校時代に藤沢さんと同人誌仲間であった松坂俊夫山形女子短期大学教授は「藤沢周平と森万紀子」(『同人誌の歩みと展望』やまがた文学祭実行委員会刊)の中で、「あえて記すならば藤沢文学は『死と再生』の文学である」としている。若いころから藤沢さんをよく知っておられる松坂教授の指摘には重みがある。

 死と隣り合わせの時もあった肺結核の療養生活、そして最初の奥さんの二十八歳の死。「人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ち」が作家の道へと向かわせる。そこから、「死と再生」の藤沢文学が生まれる、と松坂教授は導き出している。

 この「死と再生」は、山伏修験道にも共通するものがある。羽黒の「秋の峰入り」は、修験者が白装束の死出の姿で山に入り、厳しい修行を経て再生する。藤沢さんは『春秋山伏記』で羽里の山伏・大鷲坊を主人公にした。「死と再生」を経た大鷲坊に、藤沢さんは己の姿を投影したのではなかったか。そして、この作品はわらび座(秋田県田沢湖町)によって全国で上演され、多くの人々に感動を与えた。この春、最終公演が鶴岡市で行われ、ゆかりの人々が改めて藤沢さんを偲んだ。

 二月から三月にかけて、地元・庄内で「藤沢周平追想展」(ギャラリーまつ主催)が開催された。この展示会は東京・銀座でも開かれ、全国の熱心なファンが訪れた。

 今もやさしく読者に語りかける藤沢さん。訪れた人々は、その語りかけをそれぞれ特別の思いで受け止め、大事にしている。追想展会場の光景からは、この作家の残した「日本人の心」がいかに貴重なものであったかを改めて知ることができる。

 地元・鶴岡市に在住し、藤沢さんに心を寄せる一読者として、先生のご冥福を重ねてお祈り申し上げます。
合掌

山形新聞グループ経営会議議長(山形新聞社長)
当時鶴岡支社長
寒河江 浩二
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