【三屋清左衛門残日録】 料理の好み作品に反映

 定年退職をしたあとにも、会社の呪縛(じゅばく)からのがれられない人がいる。かつて行きつけだった酒場で現役の後輩と同席し、人事の噂(うわさ)をきき、むかし話に花を咲かせるのを慰安とする。骨の髄まで組織の人である。

 三屋清左衛門もそういう人だったらしい。器量人と評価され、藩の用人までつとめた。過不足なくつとめ上げ、功があって家禄も増やした。しかし清左衛門に目をかけてくれた先代藩主の葬儀がすむと、隠居して家督をせがれに譲った。

 清左衛門自身は世間と、これまでにくらべてややひかえめながらまだまだ対等につき合うつもりでいたのに、世間の方が突然に清左衛門を隔ててしまったようだった。多忙で気骨の折れる勤めの日日。ついこの間まで身をおいていたその場所が、いまはまるで別世界のように遠く思われた。

 突然空白の時間に迷いこんで、あてどもない日々をおくることになる。むろん清左衛門は自分のほうから現役の旧友に声をかけるような物欲しげなことはしない。旧友の町奉行のほうから頼られ、藩が表だって手をつけることのできないやっかいな事件の処理をかかえこむ羽目となる。

 「三屋清左衛門残日録」は1989年9月に文芸春秋から刊行された。年号でいえば昭和の末に雑誌に掲載されていた。私事をいえばその当時ぼくは直木賞の落選候補で、藤沢さんは選考委員だった。掲載された雑誌は読んでいたが、いまあらためて年譜を参照して、藤沢さんがまだ62歳の若さだったことに驚いた。ぼくは勝手に老大家をイメージしていたのだ。

 三屋清左衛門は55、6である。江戸時代では老人というべき年齢だろう。なにしろ松尾芭蕉が翁(おきな)と公言していたのは、まだ40前のことだった。

 体力と気力の衰えを自覚して気が滅入(めい)っていた清左衛門は、町奉行から依頼された雑事ともいうべき難題を解決していくうちに、しだいに活力をとりもどす。と同時に、藩を2分する派閥の抗争に、いやおうなくまきこまれていく。この政治的構図は、東西冷戦時代を思い起こさせて、古い人間にはすわりがよい感じがする。

 「三屋清左衛門残日録」は、庄内地方と思われる土地の自然や、人々の心根、心理の動きが精緻(せいち)に描かれていて、いかにも藤沢作品らしい品格のそなわった小説だが、作者がいかにもそれを書くことが喜びであったにちがいないと思われる場所がある。小料理屋の「涌井」である。

 ある晩の「涌井」の料理は、鱒(ます)の焼き魚にはたはたの湯上げ、茸(きのこ)はしめじ、風呂吹き大根、茗荷(みょうが)の梅酢漬け…。べつの日には当然のことに赤蕪(あかかぶ)の漬けものも出るし、寒鱈(かんだら)汁を待ちのぞむ会話もある。

 ところで、ぼくは江戸時代の鶴岡のある商家の年間の献立をしるした日記を見たことがあるが、食材は実に豊富で、料理は手のこんだものばかりだった。日記の主はとくべつにグルメだったのかもしれないが、その時代の庄内地方はいかにも海山の口福をさずかっていたのだと感心させられた。

 それから思えば、「涌井」の料理にはいささかかたよりがあると感じられる。作者の好物が出されているにちがいない。「涌井」の場面を描くとき、作者はかすかに微笑を浮かべておられたのではないだろうか。

 故郷の料理が作品に出るのは、「用人棒日月抄」あたりからで、「三屋清左衛門残日録」では、それが作品におだやかでなつかしい光をあてている。この作品によって、庄内の食べ物はよほど世間に知られるようになったにちがいない。

 藤沢さんの小説に出てくる女性は不幸の翳(かげ)がさす人が多くて、「涌井」の女将のみさもその一人である。だが、連作の2作目の「高札場」では、藤沢作品の読者はみごとに背負い投げをくわされる。あらすじを書く紙幅はないが、若いころに捨てた女性への負い目を感じて生きていた男が、初老になってから自裁(じさい)する。女はべつの男のもとに嫁ぎ、どうやら幸うすい生活を送り、早死にしたらしい。

 ところが三屋清左衛門が調べてみると、女は捨てた男のことはすぐに忘れて、幸福な結婚生活を送ったことが判明する。おとなしくつつましい女というのは、若いころに少しつきあっただけの男の思いこみで、よく知る友人の話では、実は女は活発で明るい性格だったというのだ。この作品は藤沢さんが、読者にしかけたいたずらではないか。どうです、だまされたでしょうというふくみ笑いの声が、天上からきこえる。一筋縄ではいかない作家だった。

(作家、山形市)

 【三屋清左衛門残日録】藩の用人にまで抜てきされた清左衛門は、妻と前藩主の死をきっかけに、家督を跡継ぎ又四郎に譲り、隠居する。初めは言い知れぬ空白感に襲われる清左衛門だが、古くからの友人で町奉行の佐伯熊太らに相談を持ち掛けられるうち、次期藩主をめぐり藩を2分する抗争に巻き込まれる。一方、小料理屋「涌井」の女将みさとの淡い恋模様が彩りを添える。

(2007年4月5日 山形新聞掲載)

藤沢作品 こう読む

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