【雲奔る 小説・雲井龍雄】 作品に青春の残り香

 明治維新のあとでたまたま山形県にひとまとめにされてしまったが、もともと庄内と置賜は他国である。鶴岡生まれの藤沢周平さんがはじめて米沢の地を踏んだのは、「米沢と私の歴史小説」という講演録によれば、昭和49(1974)年、藤沢さんが直木賞を受賞した翌年の5月のことだった。藤沢さんは46歳で、その年11月、業界紙をしりぞいて筆一本の作家生活に入る。

 ところで、私事を述べることをゆるしていただきたい。ぼくは昭和44(1969)年の、たぶん秋だったと思うが、はじめて米沢を訪れた。出版社に入社し、そのころ結婚したばかりのひとと一緒だった。米沢を訪れた理由は雲井龍雄の墓所に詣でるためだった。墓碑の前に、誰かが供えたまだ新しい花があったことをおぼえている。

 雲井龍雄の伝記を書こうとたいそうな野望を抱いていた。その後、あきらめかけては立ちなおり、また挫折して、いつの間にか年月がたった。そのころの雲井熱の理由については、いまになれば語ることがあるが、この紙面はその場所ではない。

 そんな事情があり、雲井龍雄の伝記小説「雲奔る」が世に出たのが昭和50(1975)年で、単行本の題名が「檻車墨河を渡る」だったが、その本をぼくは手にとる気がしなかった。こちらは何年もかかって、米沢や熊本の図書館を探して歩いているのに、流行作家が急に書いたようなものを、読んでたまるか、と不遇の青年(と自分で勝手に思いこんでいた)は考えたようである。

 その作品を読んだのは、ぼくも年をとってからで、「雲奔る」と改題され文春文庫になっていた。一言でいえば、なつかしい本だった。この場面はこの資料を使っているとすぐに思い当たり、その資料を読んだときのことまで思い出される。

 遠慮なくいえば、「雲奔る」は、藤沢さんの本領が発揮された作品ではない。幕末維新の政治情況を説明するために筆が縛られ、雲井龍雄の影がうすくなっている。

 藤沢さんは米沢での講演で、「龍雄という人は、安井息軒という有名な学者の三計塾という塾で塾頭を務め、とてもいい人脈を握っていたんです。頭は切れるし、人脈もある。米沢藩の探索方として、外交的に藩を動かしていくにはうってつけの人だったんですが、惜しいことに龍雄が乗り出したときには時世--幕末の体制がだいたい決まっていたんですね。薩摩、長州の倒幕という方針が決まっておりまして、つまり龍雄の活躍する場所は限られてしまった。だから志士としての龍雄の活動はやはり二流のものに終わらざるを得なかったと思います」と語っている。

 政治活動家としては二流だが、詩人の才能は素晴らしいというのが、藤沢さんの評価である。龍雄の詩は感覚が近代的で、島崎藤村に似ているとも語っている。

 政治的には二流のおくれてきた青年、しかし詩人としてはまばゆい才能がある……そういう人物を小説の主人公にすることはむずかしい。「雲奔る」の冒頭の部分で、作家は雲井龍雄のがむくちゃれ(猪(いのしし)武者)の性格を強調し、友人を心配させる青年として造型し、故郷の寸法におさまらない野望をかかえた苦しい内面を描いて、将来を暗示した。その猪武者が幕末の政治の渦巻きに飛びこみ、翻弄(ほんろう)される。この大きなテーマを内包する小説を、雑誌の短期集中連載というかたちで執筆することに、やはり無理があったのではないか。「雲奔る」の連載がおわった翌年から「小説新潮」で「用心棒日月抄」の掲載がはじまる。このシリーズが、藤沢さんの時代小説のひとつの転機となったことは、多くの人が指摘している。

 いってみれば、「雲奔る」は藤沢さんの「暗い小説」の時代の最後の作品である。しかし、ぼくは暗く重い「雲奔る」に捨てがたい愛着をおぼえる。そこに青春の残り香があるように感じられる。藤沢さんの作家としての揺り籃(かご)は暗く息苦しいもので、そこで揺られているとき、伝記作者たらんとして資料を読みこんだり、発表のあてもない原稿を書きつらねた日々があったのではないか、とぼくはひそかに想像する。

 ふたたび我田引水をするが、ぼくは雲井龍雄の伝記をものすることはとうとうあきらめて、盟友たちのことを調べた。30代の最後の年に、雲井龍雄刑死の後日譚(たん)というべき「闇の葬列」という小説を書き、それが処女作となった。

 この作品ははじめて直木賞の候補作となり、当人は意外なことの運びに驚いたが、選考委員の藤沢周平さんに読んでいただくのは、うれしくもあり、面映(おもはゆ)くもあった。

(作家、山形市)

 【雲奔る 小説・雲井龍雄】幕末・維新期の米沢藩の志士雲井龍雄(1844-70年)を描いた。秀才だが強情で周りが見えなくなる「逆上(のぼせ)」の雲井は、米沢の窮屈さから逃れようと江戸に出て、儒学者安井息軒の三計塾で塾頭を務める。藩の探索方として京都で幕末の情勢を探るうち反薩摩(さつま)の念を強め、詩才を生かし「討薩檄(げき)」を記す。維新後は浪士救済のため、東京に「帰順部曲点検所」を設けるが、新政府から反逆を企てる危険人物と見なされ、斬首(ざんしゅ)された。

(2007年8月2日 山形新聞掲載)

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