【市塵】 新井白石―生き方にひかれ

 新井白石の伝記小説「市塵(しじん)」は、「小説現代」の昭和61(1986)年9月号から昭和63(1988)年8月号まで、2年間にわたって連載された。そのころ、ぼくは小説家の卵からひよこになりかけで、講談社の編集部にたまに顔を出したから、藤沢さんから届いたばかりの原稿が、編集部で話題になっていたのを覚えている。白石が等身大の人間として描かれているのをおもしろがる人が多かった。

 新井白石は江戸時代中期の儒者であり、かつ経世家である。後世の言葉でいえば、政治参加した知識人ということになる。「青鬼」というあだ名がつけられたそうだが、なにやらやかましそうな、かたくるしそうな人である。藤沢さんはなみなみならぬ執着を示して、この学者の伝記小説にとりくまれたのだが、いったい白石のどこが気に入ったのか。

 「市塵」が収録された全集第22巻の月報に、細淵謙錠が「白石の笑顔」という短文を寄せている。これによってはじめて気づかされたのだが、藤沢さんが自伝的エッセーに、

 私の父は力持ちで村一番といっていいほどの働き者だったが、性格はきわめて穏やかな人で、大きな声を出して人と争うようなことはほとんどなかった。

 と父親のことを書いているのが、白石が晩年に著した自伝「折たく柴の記」に書かれた父の思い出とよく似ているのである。白石の父は「天性喜怒の色あらはれ見えたまはず。笑い給ふにも、声高くわらはせ給ひし事は覚えず」という、ものしずかで我慢強い人だったが、背は低く骨太でたくましかったという。

 両者の亡父が似ていたというだけのことではない。遠い昔に亡くなった父の姿と性格をそのように懐かしむ心情に通じ合うものがある。

 新井白石という学者は、朱子学的合理主義者で、理念の人だった。密入国した宣教師シドッチの対話を記録した「西洋紀聞」や自伝「折たく柴の記」など現在でも容易に読める著述を見ても、その合理主義は理解できる。しかし将軍の諮問にこたえる政治家として、とくに経済政策にかんしては、史家の評価がわかれるところだが、小説家はそこには深くたちいらない。その生きかた、心のもちように同感、同情の目をそそぐ。

 若いころ、山形で学生生活を送っていた青年留治は、あるいは白石のように、学問だけではなく世のために尽くす人になろうという大志を抱いたかもしれない。少なくとも白石という人物に、心ひかれるものがあり、ある理想型を見たから、伝記小説を書くと決めたのだろう。

 「市塵」の導入部で、

 白石は俗にまじわることを恐れず、むしろ俗に興味を持ち過ぎるようなところがある。聖よりは俗に、観念よりは事実に、理屈よりは実証に惹かれるのが白石の性格だ…。

 と作者は書く。俗であるということは、人間であるということで、これから人間白石を書くという宣言である。そのすぐあとの章で、3つになったばかりでかわいい盛りの五女やすが、脳膜炎にかかって命を落とし、白石は涙を流す。人間であるということは、そのように悲しいものだとさりげなく示す構成は妙というほかはない。

 白石の公的生活は、時代と深く結びつけられている、というより一体のものだったから、伝記も情勢を語り、人事を語ることに筆の多くを費やされるのはしかたのないことだ。とくに将軍の仕事の大半は、儀礼にかかわることだから、精密に書けば書くほど、読者には近寄りがたいものになる。そのあたりが、伝記作者ならともかく、小説家としては苦しむところである。「市塵」が読みやすい小説だとはいえない。

 しかしその中に、いかにも藤沢作品らしい味わいを加えるのが、不肖の弟子伊能佐一郎の存在である。伊能は人妻と駆け落ちして、武士の身分を捨て、うどん屋になる。

 白石が栄達をきわめ、政治と学問の世界で身を削って闘っているとき、伊能の消息は影絵のようにあらわれては、巷(ちまた)の塵(ちり)の中に遠ざかる。白石は馬鹿(ばか)なやつだと思いながら、気にかかってしかたがない。

 作品のおわりに近く、老いて身も心も疲れた白石の前に、うどん屋となった伊能があらわれ、そば湯をふるまう。その1杯の湯が白石の凍えた身体をあたためるのだが、それは癒やしというより、学問が生活に敗北する場面とも見える。

(作家、山形市)

 【市塵】江戸幕府の6代将軍徳川家宣、7代将軍家継の政治顧問を務めた儒学者新井白石を描く歴史小説。仕えていた甲府藩主徳川綱豊が6代将軍になったのに伴い、間部詮房(まなべ・あきふさ)とともに幕政を補佐する立場になった白石は、さまざまな改革を実現した一方、門閥を誇る幕臣たちの反発を買い、吉宗が8代将軍に就くと地位を失う。反間部、反白石一派が家継の生母月光院付きの年寄絵島を失脚に追い込み、大奥を揺るがした絵島事件なども盛り込みながら、白石の歩みをたどる。1990年、芸術選奨文部大臣賞を受けた。

(2007年11月1日 山形新聞掲載)

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