風 「光の揺れ」でとらえる

 文章力が純文学・大衆文学という区別を無意味にする。「集英社国語辞典」の編者として「藤沢周平」という項目を立て「下級武士と江戸庶民の哀歓を端正な文体で描き、時代小説に新境地を開いた」と評したことがある。トピックごとに表現を味わいたい。その第1回は《風》。風景・風光の風で自然描写をとりあげる。が、やはり風から入ろう。

 「武士の一分」という題で映画化された原作「盲目剣谺(こだま)返し」は、盲目ゆえに鋭くなった感覚で「縁先から吹き込む風」の運んで来る「若葉の匂(にお)い」をかぎ、老僕が薪(まき)を割る音、くしゃみの音、前に離縁した妻のけはいを間近に聴きながら「茶を啜(すす)っている」場面で静かに終わる。盲目の剣士が嗅覚(きゅうかく)的にとらえた風だ。くしゃみの音が生活感をかきたてる隠し味となっている。

 「暗殺の年輪」には「時おり庭を通り過ぎる風」が縁先に溢(あふ)れている「夏の名残りの眩(まぶ)しい光」を乱し、茅(かや)の穂や小菊の花をゆする描写が出る。「麦屋町昼下がり」にも、「若葉が不意にさわぎ立って一斉に日をはじく」のを見てかすかな風を感じる個所がある。「橋ものがたり」にも、風が吹いて葭(よし)がざわめき、その穂が「乱れて日に光った」という表現がある。風という空気の流れを聴覚や皮膚感覚ではなく、いずれも光の揺れとして目でとらえた例だ。たしかに視覚的に風を感じる経験が現実には多い。

 「濁った水面に、昼過ぎの日が映っている。日はほとんど静止して見える水の上にまるくうかんだかと思うと、つぎの瞬間には小さな渦に形を掻(か)き乱されて、四方に光をちらしてしまう」が、また「まるく眩しい光の玉」となる。「三月の鮠(はや)」では、水に映る日が絶え間なくそういう動きをくりかえすことを描きながら、読者に川の流れを感じさせる。

 「傾いた秋の日が、蜜柑(みかん)いろの力ない光を深川の町町に投げかけて」いるころ、荷を積んだ小舟が通り過ぎる。「船頭が竿(さお)をあやつるたびに、竿からこぼれる水と掻き乱された掘割の水が、きらきらと日をはじく」と、「消息」でも水の動きを光でとらえた。

 「溟(くら)い海」に「夜の底を、ひそひそと雨が叩(たた)いている」という描写がある。「夜の底」という表現は芥川龍之介の「羅生門」にも川端康成の「雪国」にも出てくるからオリジナルではないが、それをひそひそと叩くと展開させたこの一文は感覚的に納得させる。「密告」に出る「日が落ちたあとの気だるいような光が町を包んでいる」という一文も、春の花の香もし「自分の命を狙うものがひそんでいるとは信じられない、穏やかな日暮れ」と、作中人物の心理をからめて描きとることで印象に残るのだろう。「麦屋町昼下がり」に出る「満月に近い月は、まだ寒かったひと月前には人にも物にももっと荒涼とした光を投げかけていたのだが、いまはためらうような光を地上に落としている」という一文は季節の推移を光の感触の差でとらえ「ためらう」という擬人化で風景に体温を与えた。

 「江戸おんな絵姿十二景」中、「朝顔」の残酷な末尾は特に忘れられない。取引先にもらったという朝顔の種を女は大事に育て、みごとな花を咲かせた。が、その種は夫が妾宅(しょうたく)から持って来たものだと知る。昨夜も夫はいそいそと妾(めかけ)の家に出かけた。そう思って見ると毒々しく見える。「無表情につぎつぎと花をむしり、つぼみも摘んで捨てた」。そして内面には一切触れず「日がさらに高くのぼり、誰もいない土蔵裏を白日が照らしたとき、そこにはむき出しに、異様な狼藉(ろうぜき)が行なわれた痕(あと)があらわれた」と作品を閉じた。

 「寒ざむとしぐれてはわずかに白い日が枯野をわたる。そういう日日をくり返したあとで、空はついに黒い雲に閉ざされ、やがて乾いた音を立てて霰(あられ)が降る。その下で人も家も背をかがめ、次第に寡黙な相を深めて行く故郷」、この作家が「債鬼」にそう記した古里に自分も住んでいた半世紀前を思い返してみる。たしかにあのころ、人も家も背をかがめて寡黙に過ごす季節だった。雨上がりの青空の下で犬が大きなあくびをする東京武蔵野の午後である。

(早稲田大名誉教授・山梨英和大教授、鶴岡市出身)

(2007年1月18日 山形新聞掲載)

表現散策十二景

  • 風
  • 姿
  • 女
  • 剣
  • 心
  • 食
  • 顔
  • 笑
  • 喩
  • 視
  • 始
  • 終
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