始 さりげなく作中に誘う

 小説の書き出しと結びは作家が特に神経を使うところらしい。「吾輩は猫である」と読者の意表をついて猫が尊大な調子で語りだす夏目漱石の有名な冒頭文は作品名にもなった。「木曾路はすべて山の中である」という島崎藤村の書き出しは、「夜明け前」という長編の幕開けにふさわしい雄大な一文だ。「或日(あるひ)の暮方の事である。1人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」と、くっきりと額縁におさめる芥川龍之介の「羅生門」の始め方もあれば、「その白い哀れな生きものは、日に日に痩(や)せおとろえてゆくばかりで、乳も卵もちょいと眺めただけで、振りかえりもしなかった」と、猫であることさえ明記せずにぼんやりと作品世界に誘い込む室生犀星の「愛猫抄」の入り方もある。

 「1945年8月15日の日暮れ」と“時”から入る宮本百合子「播州平野」、「歌島は人口1400、周囲1里に充たない小島である」と“所”から入る三島由紀夫の「潮騒(しおさい)」、「仙吉は神田の或秤屋(はかりや)の店に奉公している」と“人”から入る志賀直哉の「小僧の神様」が普通だが、「死のうと思っていた」という物騒な一文で始める太宰治の「葉」、「みると靴が埃(ほこり)で白っぽいのだ」と唐突に始める堀辰雄「土曜日」の例もある。「そして」という接続詞で始める人をくった宇野浩二「蔵の中」、「今日は、陸軍大臣が、おとうさまのお部屋を出てから階段をころげおちた」と始める武田泰淳「貴族の階段」などは、読者がその先を読まずにいられない冒頭文だ。

 そんな気取りを感じさせることもなく、藤沢周平は読者をさりげなく作品世界へといざなう。「潮田」は「霧がある」という短い一文で突然始まる。主語なしに「よく笑う女だった」と書き出す「さくら花散る」も唐突な幕開きだ。「しぶとい連中」は「熊蔵は足をとめた」と始まる。何か異変に気づいたからだと、読者は息をのんで次を読む。「事件が知れたのは、その夜四ツを過ぎた頃(ころ)である」と始まる「闇の顔」も、「日が暮れかけているしぐれ町2丁目の通りを、おさよははだしで歩いていた」と始まる「乳房」も、いったい何が起こったのかと読者は落ち着かない気持ちで先を急ぐ。ちょっとしたサスペンス効果である。

 「密告」は「さてと」というつぶやきを独立させ、「定廻(じょうまわ)り同心笠戸孫十郎は、茶碗(ちゃわん)を盆に戻すと腰を上げた」という地の文を添えて場面に引き込む。「虹の空」は「いい家だったわねえ」という会話を投げ出し、次の行に「おかよは、お茶を飲みながら、まださっき見てきた家のことを言っていた」と、その声の主を登場させる。「まだ」とあるので、読者は場面の途中から見せられたような唐突感を覚える。冒頭文に「さっきから思っていた」とある「闇の穴」も、「あたりはまた暗くなった」とある「泣かない女」も同様だ。

 「裏口の戸を閉めに行ったおすみは、思わず叫び声をたてるところだった」と始まる「小ぬか雨」は、実際には叫び声をあげていないだけに、おすみという女の内側から描いた感じが強い。「突風に思わず目をつむったとき劇痛を感じた」と書き出す「恐喝」も、登場人物の感覚でだしぬけに幕を開ける。「信蔵は焦りと苛立(いらだ)ちではらわたが焼けるような気がしている」と、感覚を現在形の文末で記す「日暮れ竹河岸」の冒頭はさらに臨場感がある。

 「誰かに見られている、と思った」と始まる「おつぎ」、「気配に気づいたのは、大名小路を抜けて、虎の御門外の御用屋敷に帰る途中だった」と始まる「相模守は無害」など、感覚や認識の主体が示されない入り方も、読者を作中に引き込みやすい。「戸が倒れるような物音がし、間もなくただならない人の叫び声がした」と始まる「宿命剣鬼走り」も、音を耳にした人物が明記されず、読者はやはりその現場に投げ出され、渦中の人となる。

 「おしづは、途中からその話を上の空に聞き流した」と始まる「夜の雪」のように、最初から何を指すかわからない「その」という指示詞で書き出す作品もある。「冬の日」も「その店に入る気になったのは」と始まり、「市塵」も「その日新井白石は」と始まり、「飛鳥山」も「その小さな女の子と目が合ったとき」と、いきなり「その」で始まる。

 「大家の六兵衛に聞いた家は、きてみると古びたしもた家だった」と始まる「用心棒日月抄」で作者が主人公の側からものをとらえていることは、主体を明記せずに「きてみると」と記す空間把握にあらわれている。「うぐいす」は「軒下の洗濯物をとり込んでいると、うしろでお六の声がした」と始まり、「おぼろ月」もいきなり「うしろの空に月がのぼって」と書き出される。「うしろ」などというものは客観的には存在しないから、だれかの後方なのだが、読者は明記されていないその人物の位置に自分を重ねて読むことになる。

 この作家は「晩夏の光」を「とっさに背を向けたが間に合わなかった」と書き出した。だれがだれに背を向けたのか、何に間に合わなかったのか、肝心の情報を待機させて作品は始まる。情報の空白を追って読者は身を乗り出す。つまりこれら一連の冒頭文は、語り手の中継なしに、作中人物の認識をそのまま映した書き方なのだ。外から冷静に観察している筆致ではない。表現に応じて読者は主人公とともに悩み、剣をふるい、ほっと息をつき、ひかえめに人を愛し、その人物になりきって物語の中を凜然(りんぜん)と生きてゆく。

(早稲田大名誉教授・山梨英和大教授、鶴岡市出身)

(2007年11月8日 山形新聞掲載)

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