直木賞受賞後 作品に少しずつ明るさ

 昭和46年の「オール読物」新人賞受賞作「溟(くら)い海」は、時代小説作家藤沢周平を世に送り出す契機となった。とくに48年の「暗殺の年輪」による直木賞受賞は、この作者の文壇的地位をほぼ確実なものにした。

 時に作者45歳、後ればせの文壇登場ながら、作家的自立のいっぽう、職業人としては、経営の安定した「日本加工食品新聞」の編集長として勤務し、その間、和子夫人との再婚とその内助を得て、幼子を抱える家庭生活もようやく安定していた。したがってこの時期の文壇登場には、長い不遇の時代、いわば冬の時代が終わりを告げるほどの明るさがあったはずである。

 しかし、直木賞受賞後を含めてこの時期の藤沢作品はおしなべて暗い色合いに染め上げられる。作者は後にこの時期を顧みて、要約次のように述べている。…〈あのころは暗い色合いの小説ばかりを書いていた。男女の愛は別離で終わり、武士は死んで物語が終わるような小説しか書けなかった。理由ははっきりしている。当時、私は人には言い難い鬱屈(うっくつ)した思いを抱えていて、そのころの小説は、自己の鬱屈した思いの吐露にほかならなかったからである〉(「転機の作物」)。-直木賞受賞から10年後の文章である。

 ここではまだ、心にわだかまる「鬱屈」の由来は明かされない。それが、まだまだ死ぬはずのない妻の命を突然に奪い去った非情理不尽な運命に対する「憤怒」、全力を尽くしてなお妻の命を救えなかった「無念の気持」として明かされるのは、作者晩年の自伝「半生の記」の最終章(平成6年)まで待たなければならない。

 妻の死という私事を軽々しく人に語るべきではないとする作者の人柄を偲(しの)ぶべきだが、それだけに、封印された「憤怒」と「無念の気持」は「どこかに吐き出さねばならないものだった」(「半生の記」)。おのずから、人の世の不条理に対する憤り、いわば怨念(おんねん)のごとき暗い情念と、絶望的な喪失感こそがこの時期の藤沢作品の主要なモチーフとなる。作品が暗い色一色に染め上げられるのは必然だった。

 ただし、初期の藤沢作品について単に暗い色合いを言うのは必ずしも当たらない。作者の胸に長くわだかまる「鬱屈」、いわば怨念に似た暗い情念にせよ、この作家の天性の詩心、青春時代以来深められた詩的感性に濾過(ろか)されて作品化されるとき、それは一種清冽(せいれつ)な抒情(じょじょう)、悲愁の詩情として読者の胸に染み入る小説となる。

 それにしても「暗殺の年輪」前後の初期作品群が、一様に暗い色合いに染め上げられていることは否定し難い。絵でも小説でも、暗い色調がただちに作品の価値を貶(おとし)めることにはならないが、文壇登場以来、この作家が書き、かつ目指すものは時代小説だった。

 時代小説は、本来〈虚構の物語〉を通じて読者大衆に〈読む楽しみ〉を提供することを一般的な特質とする。したがって、ひたすら作者自身の情念の吐露に傾き、一様に暗い色合いに仕上げられる小説が、読者大衆の〈読む楽しみ〉に適(かな)わないことも事実である。「あのころは本を出しても返品のヤマだったよ」という作者生前の言葉にはやや誇張の響きがあったにせよ、藤沢文学の初期作品群は、一部熱烈な愛読者を獲得しながらも、大衆としての読者には必ずしも歓迎されなかったふしがある。

 しかし、直木賞受賞から2年後の昭和50年前後、藤沢文学は一種の岐路にさしかかる。50年の創作活動が目立って活発多作なのは、前年11月、17年に及ぶサラリーマン生活を打ちきって作家生活に専念した結果としても、いっそう見逃し難いのは、ここにきて、これまでは見られなかった〈明るい〉小説が散見されることである。とくに際だつのは「臍曲がり新左」(50年)だが、「証拠人」(49年)「しぶとい連中」(50年)などもそれに類する。

 共通するのは、さしあたって巧まざるユーモアである。作者自身、「それはある時期から、ごく自然に私の小説の中に入りこんで来たのだった」(「転機の作物」)とふり返っているが、ここまでの藤沢作品には絶えて見られなかった明るさが差し込む印象がある。ただし、それはまだ雲の切れ間からふと漏れ出る日差しほどの明るさでしかないが、長く作者の胸にわだかまっていた言い難い鬱屈、暗い情念からの快癒の兆しがようやく仄見(ほのみ)えてきたことのしるしである。

 それは、書くこと、鬱屈した情念を小説の中に吐露することを通じておのずから癒やされたということでもあろうが、もともと、人に優しく、自然と人生に対して澄明な眼差(まなざ)しを向けるこの作家には、いつまでも暗い情念に固執することはふさわしくなかった。初期の「鬱屈」、暗い情念から解放されて、藤沢文学がよりのびやかな世界に展開されるのはこの直後である。

(宮城学院女子大名誉教授、長井市出身)

(2007年6月21日 山形新聞掲載)

生涯の追憶

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