昭和50年代の豊熟期 生活と文学の論理併存

 昭和50年代に入るや、藤沢文学は最も実り豊かな豊熟期にさしかかる。51年9月から連載の開始された「用心棒日月抄」は、「孤剣」「刺客」と書き継がれていっそう世評を高め、また「彫師伊之助捕物覚え」3部作、「獄医立花登手控え」4部作、「隠し剣孤影抄」「隠し剣秋風抄」に収められる隠し剣シリーズ、「よろずや平四郎活人剣」などの長編連作が相次いで発表されたのは昭和50年代の前半から後半にかけてだった。それらはほぼ同じ時期の「橋ものがたり」「驟(はし)り雨」以下数多(あまた)の短編小説群と相まって時代小説作家藤沢周平の名声を不動のものにした。

 そのころ、再会後の藤沢さんからたびたび新刊書を送られていた私は、返礼というにはあたらないものの森●外に関する旧著を送ったことがある。それから間もなく返ってきた藤沢さんの手紙に次の一節がある。-「●外について貴兄が指摘するような)生活の論理と文学の論理の葛藤(かっとう)は、小説に手を染めた者が、多かれ少なかれ味わわざるを得ない苦汁のように思われます。(中略)小生が時代小説乃至(ないし)歴史小説の分野で書いているのも、それが理由の全部ではありませんが、理由の一端ではあります。辛うじて生活と文学との平衡を保てる場所を、自分なりに見つけたということです(後略)」

 受けとった当時は、多忙な作家からの丁寧な書信としてただありがたく読んだのだが、今にして思えばこの文面は気軽に読み過ごすべきではなかった。一方で公人の軍医官僚にして森家の家長であり、他方で一個独立の文学者として生きた森●外に「生活の論理」と「文学の論理」のあいだに葛藤があったであろうことは理解しやすい。しかし、市井に生きた作家藤沢周平の場合、生活と文学の間にいかなる対立や葛藤があり得たのか。

 もちろん、市井に生きる作家といえども、生活と文学とそれぞれの論理があり得ることは納得できる。割り切った言い方をするならば、「溟(くら)い海」による新人賞受賞以来の数年間は、2つの論理は対立しながらも相互に侵し合うことのないバランスを保っていたとも考えられる。日中は小菅留治として日本食品経済社発行の業界新聞の編集長として勤務し、夜分もしくは休日には藤沢周平として小説を書きつづけるというバランスである。だからこそ、当時の小説は生活の論理に(あえて言えば本の売れ行きに)顧慮することなく、文学の論理に徹することができたと言えるかもしれない。そのことが心中に鬱屈(うっくつ)する暗い情念を吐露する小説、大衆の好みには適(かな)わないものの文学的純度の高い初期作品群が生み出されたゆえんだったとする見方がありうる。

 しかし、昭和49年11月、日本食品経済社を退社してサラリーマン生活に別れを告げたとき事情は一変する。職業作家として腰を据えたということは、文学の領域に生活の論理がかぶさってきた、あるいは、文学の論理に生活の論理が絡み合ってきたということである。職業作家たる以上もはや自己の情念の吐露に固執すべきではなかった。それよりも、面白い小説、読者を愉(たの)しませる小説、〈売れる〉小説を書くべきだった。それが職業作家としての「生活の論理」というものだろう。そう思って先に例示した昭和50年代の代表作を眺め渡してみるとよい。それらはみごとに〈面白い〉小説の一群である。

 だからといってそれは、必ずしも生活の論理が優先して文学の論理が後退したということではないだろう。それら〈面白い小説〉、小気味よい娯楽を主眼とする小説にも藤沢周平の文学魂、この作家に固有の文学の論理は一貫している。〈小説は本来面白いもの、面白くあるべきもの〉というのが、この作家の小説観の原点だった(そのことは先に書いた)。小説が面白すぎて悪かろうはずがない。藤沢さんは〈面白い小説〉をつくりあげることに、創作者としての無上の喜びを感じていたにちがいない。そこにこの作家の文学の論理があったことは疑いない。

 しかし作家藤沢周平の「文学の論理」というならば、それが単に〈面白い〉小説づくりにとどまらないこともまたあらためていうまでもない。そのことは、面白さ無類の時代小説が量産されていた昭和50年代にも、「檻車墨河を渡る」「義民が駆ける」ほか、いわゆる時代小説とは全く趣の異なる一連の歴史小説が相次いで書き継がれていることからも明らかである。ということは、昭和50年代の藤沢文学には、職業作家としての生活の論理と作家本来の文学の論理とが併存し、絡みあっているということだ。やがてこの絡み合いが藤沢文学の局面に、とくに時代小説の局面そのものに、より深みのある、より豊饒(ほうじょう)な世界を出現させることになるはずである。

(宮城学院女子大名誉教授、長井市出身)

●は、匡の王が品、右に鳥

(2007年9月20日 山形新聞掲載)

生涯の追憶

文字サイズ変更
  • 小
  • 中
  • 大

県内7市発行メールマガジン登録無料

ふるさとだより

週1回ふるさとの話題をお届け

ニュース特集

スポーツ

教育・子育て

おでかけ

暮らし情報

twitter発信中

山形新聞からお知らせ

  1. 【2017年8大事業】
     山形新聞、山形放送の2017年の8大事業が決まりました。詳しくは、こちらから
  2. 【やましん公式FB】
     山形新聞社は、インターネット交流サイト「フェイスブック(FB)」の公式ページを新設しました。
     公式ページでは山形新聞のニュースのほか、本社からのお知らせなどを中心に紹介します。
     アドレスは、こちらから
  3. 【やましんe聞で動画視聴】
     読者限定の電子版「やましんe聞」で動画を閲覧できる新サービスを始めました。詳しくは、こちらから。
  4. ◆中学、高校の各種スポーツ大会の記録を紹介。検索機能も備えています。アクセス方法はこちら
  5. ◆探したい記事がきっと見つかる、山形新聞記事データベース。他社DB横断検索が便利な日経テレコンジー・サーチファクティバ
  6. ◆県外でも今日の朝刊が朝一で読める「お届け電子版
  7. ◆ニュース速報、高校野球、モンテ情報、おくやみ… 身近な情報を携帯で確認「モバイルやましん
  8. ◆故郷の話題をメールでお届け、ふるさとメール会員募集(登録無料)
山形新聞から
販売から