「蝉しぐれ」前後 人間の根底を真摯に問う

 平成3年8月9日付の藤沢さんからの葉書(はがき)に次の文面がある。「月末ごろ『用心棒日月抄』という新刊をお送りします。気楽に眺めてください。時どきこういう娯楽小説を猛然と書きたくなるのです」。-間もなく送られてきたのは、「用心棒日月抄」連作の4冊目(最終巻)「凶刃」だった。

 文中の「時どきこういう娯楽小説を猛然と書きたくなるのです」という言葉は微妙である。昔の文学青年仲間に対する気軽な挨拶(あいさつ)としても、この言葉からは作者自身の自分の小説に対する一種の差異感がそれとなく読みとれる。つまり、今度送るのは近ごろ自分が書いている、書こうとしている小説とは些(いささ)か趣が違うが、というほどのニュアンス…。

 実際、送られてきた小説はそのころ読み慣れていた藤沢作品とは些かならず趣の違うものだった。もっとも、当時の藤沢文学の主な作品といえば、歌人長塚節の生涯を詳細精密に辿(たど)った評伝小説「白き瓶」(昭和60年刊)と、江戸中期の儒者・政治家新井白石を主人公とする最も厳格な歴史小説「市慶」(平成元年刊)が含まれるから、「用心棒日月抄」の続編がそれらと全く趣を異にするのは当然だった。

 しかし当時の、あるいは平成3年よりはやや先立つ時期からの時代小説に目を転じても事情はあまり変わらなかった。例えば「蝉しぐれ」(昭和63年刊)や「三屋清左衛門残日録」(平成元年刊)、あるいは「玄鳥」(平成3年刊)所収の短編小説、それらはもはや「用心棒日月抄」とはあまり似ていないのだ。それらもまた〈読む愉(たの)しみ〉をたっぷり堪能させる時代小説であることは紛れもない。しかし、それらは「用心棒日月抄」の第1作(昭和53年刊)から「よろずや平四郎活人剣」(昭和58年刊)あたりまでの、いわゆる〈職業作家として腰を据えた〉時期の作品群とは微妙に趣を異にするのだ。一口で言えば、「蝉しぐれ」前後の作品群は、もはやストーリー運びの工夫や派手な立ち回りを柱とする「娯楽小説」とは質の違うものになっているということだ。

 「転機の作物」というほどには目立たないものの、転換の節目は市井に生きる中年の男女の恋を描いた「海鳴り」(昭和59年刊)という作品だった。この小説については「チャンバラの楽しさがあるわけでもなく、匕首(あいくち)一本光るわけでもないただのひとの物語」にすぎないが、という作者自身のコメント(「『海鳴り』の執筆を終えて」)がある。またそれに続く「風の果て」(昭和60年刊)という小説は、武士物の特質上、2、3の剣戟(けんげき)場面は含むものの、それよりは権力と友情をめぐる葛藤(かっとう)、権力と政治にかかわる光と影、それらを包み込む青春期から壮年期にかけての人生模様、要するにもっぱら人間的な主題に焦点を合わせた長編小説である。これら「海鳴り」も「風の果て」も、世評高い「蝉しぐれ」に先だちながら「蝉しぐれ」に拮抗(きっこう)する傑作だった。

 ともあれ、昭和60年前後「海鳴り」や「風の果て」とともに始まったのは、「小説を書くということは」昔も今も変わらぬ「人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと、仮りに答を出す作業であろう」(「時代小説の可能性」)という覚悟のもとに、職業作家としての腰の据え方からあらためて端座し直した作家による新しい文学的局面であった。したがってその先に展開されるのが、面白さ第一の小説、いわゆる娯楽小説とは質の違うものになるのは自然な成り行きだった。その結果生み出されたのは、時代小説本来の〈面白さ〉をたっぷりと含みながらも、「人間の根底にあるもの」に真摯(しんし)に問いかける良質の文芸作品そのものだった。

 こうして時代小説作家藤沢周平の文学的豊熟期は「海鳴り」や「風の果て」とともに始まった。しかし、藤沢時代小説の頂点に立つのはやはり「蝉しぐれ」であろう。牧文四郎を主人公とするこの青春小説には、作家藤沢周平の切実な青春体験のすべてが投影されているからだ。-牧文四郎の友情体験も、少女ふくに寄せる初恋の挫折も、不意に襲いかかった逆境とその先の不運な歳月も、その中の精進の日々も、すべて完璧(かんぺき)な虚構を通じて、作者自身の青春の節々とほぼ完全に重なる。さらに言えば、「蝉しぐれ」を頂点とする藤沢文学の豊熟期の作品群には、青春期以来のこの作家に独自の詩的感性がおしなべて通底している。その意味でもそれらは醇乎(じゅんこ)たる文芸作品、時代小説とか娯楽小説とかの範疇(はんちゅう)を超えた文芸作品そのものだった。

 にもかかわらず、そういう小説を書き続ける合間にも「時どきこういう娯楽小説を猛然と書きたくなる」というのもまた、少年時代以来の無類の小説好きのこの作家ならではの一面だった。

(宮城学院女子大名誉教授、長井市出身)

(2007年10月18日 山形新聞掲載)

生涯の追憶

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