藤沢周平と庄内

【又蔵の火】 総穏寺、湯田川街道

「上肴町から大工町、鍛冶町へかけて、土地は緩やかに勾配を盛りあげ、木戸口からも僅かながら坂道になる。このために木戸口の番所も、角にある広大な酒井家の菩提寺の大督寺の塀も、腰から下は坂の下に沈んでいる。坂をのぼってくる人々を見つめる又蔵の眼は、疲れて熱を持った。」

 酒井家墓所の杉木立の一角に「鶴ヶ岡城鍛冶町口木戸跡」の柱碑が建っている。木戸番所のあったところだ。ここから国道345号(湯田川街道)を南に約三百メートル。緩やかな上り坂が尽きたところに曹洞宗の名刹(めいさつ)・総穏寺(そうおんじ)がある。ここで土屋又蔵は、仇敵(きゅうてき)の叔父・土屋丑蔵を待っている。仇討(あだう)ち決行の朝である。

 主人公の又蔵は、家の面汚しとして死んだ兄万次郎の仇を討つために鶴ヶ岡の町へ帰ってきた。兄の死を悲しんだ者が一人もいなかったから、兄の仇を討とうと決意したのである。

「総穏寺の建物は、広い寺域に、客殿、仏殿、大伽藍を真中にはさみ、墓地側の左に衆寮、中玄関をはさんで右に庫裡、その奥に茶室、書院と棟を連ねる。客殿に上る大玄関から直線に山門、総門が続き、通りに出る小門に達する。」

 その総門の左手に「土屋両義士相討之地」の石碑が建つ。史実を基にした作品なのだ。境内の奥には丑蔵の墓のほか、万次郎と一緒に葬られている又蔵の墓もある。
 
 2人は、山門の前で激しい闘いを繰り広げ、双方とも深手を負う。そして丑蔵はいう。

「『始末をつけねばならん。土屋の家の体面を傷つけず、おぬしの意趣も通るような始末をな』」。

 万次郎の墓の前で2人は、刺し違えて自決する。又蔵は本懐を果たし、丑蔵は武士らしい最後を遂げる。

 寺には、2人が闘った刀が残っている。小柄な又蔵は細身のもの、長身の丑蔵は幅が広く、重い刀。それぞれ、体格に合った刀を使っていたらしい。折れそうなほどの刃こぼれがあり、切り合いの凄まじさを物語っている。

 総穏寺はいま、本堂、客殿を中心に改築の真っ最中である。工事の車が出入りし、火花を散らした決闘の場所は、時代を越えて様変わりしようとしている。

 仇討ち決行の前、又蔵が城下の様子を伺うために一時身を寄せた「井岡(いのおか)」は、湯田川街道を南下した国立鶴岡工業高等専門学校の辺りである。身を寄せた家の娘「ハツ」は、又蔵にほのかな思いを抱いている。仇討ちの一件を知らず、夕暮れ時、柿の木の下で鶴ヶ岡に通じる道を見つめている。又蔵の帰りを待っているのだ。

 その道はいま、工事中の高速道路の下をかいくぐり、ハツが見たであろう鶴ヶ岡の城下は、この高速道の土盛りに遮られて見えない。

 作品のあとがきで藤沢さんは、「これは私の中に、書くことでしか表現できない暗い情念があって、作品は形こそ違え、いずれもその暗い情念が生み落としたものだからであろう。読む人に勇気や生きる知恵をあたえたり、快活で明るい世界をひらいてみせる小説が正のロマンだとすれば、ここに集めた小説は負のロマンというしかない」と書いている。初期の作品に共通している「暗い宿命」が、この作品の底にも流れている。

 藤沢さんは、この作品を書くにあたって、鶴岡に残っている史料を丹念に調べた。総穏寺を訪れて、住職さんから話を聞いたりもしている。

 作品は昭和48年の「別冊文芸春秋」秋季号に掲載された。藤沢さん46歳。

藤沢周平と庄内 なつかしい風景を探して

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