藤沢周平と庄内

【隠し剣秋風抄・暗黒剣千鳥】 致道館

 「家中の子弟は、十歳になると藩校三省館に通い、孝経、論語から、大学、中庸まで教授をうける。その課程が終って十五、六歳になると、今度は終日授業に変り、四書五経のほかに、左伝、戦国策、史記などを習う。」

 荘内藩の藩校・致道館を彷彿(ほうふつ)とさせる。致道館は9代藩主酒井忠徳公が創立したもので、学風は徂徠学であった。入学は9歳から許され、進級は実力によって行われた。句読所、終日詰、外舎生など5段階を経て卒業する制度を採用。致道博物館には当時、教材に使われた毛詩、孝経、論語などの版木が保存されている。

 主人公・三崎修助は禄高(ろくだか)100石の「家中では中どころ」の部屋住みである。つまり、長兄が家を継ぎ、修助は居候である。兄嫁がうるさく肩身の狭い思いをしている。勉強より剣術が好きで、道場通いに励んでいるからだ。

 修助の周辺に異変が起きたのは、130石の家柄に婿入(むこい)りの話が持ち込まれた頃であった。道場に通う仲間が次々と闇討ちされたのである。首筋に鋭い一太刀を浴びせられ、反撃の跡もなく屠(ほふ)られていた。家中の若者の中で、屈指の遣(つか)い手と呼ばれる者たちであった。そして、その犠牲者には1つの共通点があった。あるいは共有の秘密、があったのである。

 城下の曾我道場に通う修助ら部屋住みの若者5人に、側用人明石嘉門暗殺を持ちかけたのは、次席家老牧治部左ェ門であった。藩主の寵愛(ちょうあい)を受け、異様なほどの立身を遂げる嘉門を「奸物(かんぶつ)」と断じ、「闇(やみ)に葬(ほうむ)る一手じゃな」と若い連中を唆(そそのか)したのである。

 「修助たちは、牧に命じられるままに、その場で神文誓詞をさし出し、数日後、下城する明石嘉門を五間川の河岸に襲って、殺した。三年前の夏の夜のことである。」

 その仲間がいま、次々と倒されていく。恐怖と焦りが、残された者たちの心にあった。牧家老から使いの者が来たのは、そんな時だった。病に倒れ、床の中から藩政に加わっている牧は、「射抜くような鋭い眼」を配りながら、3年前の秘事は決して口外せぬように、と固く申しつける。その時修助には、家老の病身に「薬の香が強く匂った」のである。

 5人の1人、親友の奥田喜市郎が斬られたのは、修助が婿入りの相手である朝岡秦江に会った日の夜である。駆けつけた耳元で奥田は「匂った。くすり…」と残して果てた。既に4人が斬られていた。残ったのは、修助ただ1人である。

 曾我道場は三徳流である。三徳流には秘剣があった。千鳥と呼ぶその秘剣は、暗殺に用いる剣として工夫された。先代の道場主は、危険な剣として廃(はい)し、後継者に伝えていない。「千鳥と申すのは居合い技での。しかも一撃必殺を期して頸(くび)をはねるところに特色がある」と曾我平太夫は、秘剣が仲間斬殺の剣癖に酷似していることを指摘する。

 そして修助は、かつて曾我道場の門弟として、牧家老が在籍していたことを知る。

 若い頃、牧は江戸の道場で空鈍流の名手として鳴らした男。曾我道場で千鳥の秘剣を受けていたとしても不思議ではなかった。

 暗殺を指示した家老が、今度は5人の抹殺を図っていたのである。

 「物の気配は急に濃く迫って来た。闇夜だった。(中略)修助ははじめて敵の足音を聞いた。(中略)軽い足音は、背後の殺気さえなければ、まさしく渚にあそぶ千鳥を連想させる。
 その鳥が飛んだ。」


 一撃をかわした修助は、相手の胴に鋭い打ち込みを入れた。倒れた男から、血の匂いにまじって、濃く薬の香りが匂った。牧家老であった。

 隠し剣シリーズの中で、相手が秘剣を使い、それを打ち破るというケースはこの作品だけである。

 作品は昭和54年の「オール讀物」12月号に掲載された。藤沢さん52歳。

藤沢周平と庄内 なつかしい風景を探して

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