藤沢周平と庄内

【蝉しぐれ】 城下や近郊の村々

 「海坂藩普請組の組屋敷には、ほかの組屋敷や足軽屋敷には見られない特色がひとつあった。組屋敷の裏を小川が流れていて、組の者がこの幅六尺に足りない流れを至極重宝にして使っていることである。」

 普請組・牧助左衛門の養子文四郎は15歳である。昼前は青柳(あおやぎ)町の居駒塾で経書を学び、昼過ぎから鍛冶町にある空鈍流の石栗道場に通う。それが日課である。

 その小川で文四郎は悲鳴を聞いた。隣の小柳家の洗い場にいる「おふく」の声であった。ヤマカガシという蛇にかまれたのである。12歳のおふくは、色の白い、ふっくらした隣家の娘で、最近文四郎に恥じらいの素振りを見せる。垣根を越えて文四郎は、蛇にかまれたおふくの指から毒を吸ってやった。

 夏。熊野神社の夜祭り。おふくと一緒に文四郎は夜祭り見物に出かけた。毎年のことである。親友の小和田逸平はそれを冷やかす。親友はもう1人、秀才の島崎与之助がいる。

 祭りの夜、島崎は悪童連中からさんざん痛い目に逢う。日頃の秀才ぶりが妬(ねた)まれたのである。文四郎と逸平は加担して、雑巾のようにしたたかに殴られた。青春のさ中の出来事であった。

 やがて、逸平は城に上がり、与之助は江戸の塾に行って、それぞれの道を歩き始める。そのころ、文四郎の父助左衛門は藩に反逆したという罪で切腹を命じられた。

 百人町の龍興寺は、耳にわんとひびくほどの蝉(せみ)の声に満ちていた。いま、文四郎は父の遺体を引き取りに来ている。荷車を引いて1人で来たのだ。

 「文四郎は男たちに手伝ってもらって、車に敷いたむしろの上に父の遺体を移した。遺体を動かすと、新しい血がむしろの上にこぼれた。そうしていると、文四郎の脳裏を、白日の下でそんなことをしている自分を信じられない思いが横切るのだった。」

 車を引いて文四郎は、炎天下、坂の道を組屋敷の家まで帰った。途中、人々の目は冷たかった。家の前まで来た時、ふくが梶棒を引いて手伝ってくれた。そして、一緒に涙を流してくれたのである。蝉しぐれの中であった。

 その「ふく」も、江戸に行った。大奥の勤めに出るという。断絶は免れたが、家禄(かろく)を減らされ、母とともに長屋に移った文四郎は剣と勉学に励んだ。「鬱屈(うっくつ)した」気持ちを紛らすのは、その2つであった。

 父は、藩の内紛に関係して切腹を命じられたと知ったころ、次席家老里村左内から、復禄の沙汰(さた)が出る。そして、文四郎は剣の腕を上げ、「秘剣村雨」の極意を受けるほどになっていた。

 「ふく」は、そのころ藩主のお手がつき、「お福」になっていた。藩の世継ぎに絡む政争に巻き込まれ、「金井村のはずれにある」欅(けやき)御殿に来ていたのである。

 そこで出産したお福を、里村次席家老一派は、母子の抹殺を謀る。その役を文四郎に命じたのである。そのための復禄であった。

 陰謀(いんぼう)を知った文四郎は、元首席家老加治織部正(おりべのしょう)の助けで窮地を脱し、お福とその子を里村一派から救う。逸平や与之助が協力してくれた。

 二十余年後、領内の西にある湯宿で、尼になろうとしている「お福」と、郡奉行に出世している「牧助左衛門(文四郎)」は、青春時代の「思い」を果たしていた…。そして、やはり蝉が鳴いていた。

 清冽(せいれつ)な文章のこの作品は、海坂藩ものの集大成とでも言うべきもので、藤沢作品の最高傑作の一つに数えられる。

 かつて、作家の井上ひさしさんは、この作品で海坂藩の地図を作った。同じ手法で、作品の描写から断片的な地図を作り、それを一枚にまとめたのが右の地図である。モデルの荘内藩の城下やその近郊の村々が彷彿とされる。

 ただ、井上ひさしさんも指摘しているが、同じところを描写していて、どうしてもつじつまがあわない点があるのも事実である。例えば、鍛冶町の石栗道場からの帰途、五間川の千鳥橋を渡った文四郎は、確かに川の西側にいるはずだが、川の東側の河岸通りから見ている描写になっているのが2ヶ所ある。さらに、普請組の組屋敷があるのは、「城下の西はずれ」と「城下の北はずれ」という描写もある。

 欅御殿のある「金井村」は藤沢さんの古里・旧黄金村、「青畑村」は旧青龍寺村であろう。また、金峯山の麓(ふもと)の描写は克明である。領内の西にある湯宿は、湯野浜温泉である。

 作品は「山形新聞」夕刊に昭和61年7月9日から62年4月11日まで連載された。藤沢さん59歳から60歳。

藤沢周平と庄内 なつかしい風景を探して

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