滔々と 最上川

最上川

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 「滔々と 最上川今昔」第3部は「はこぶ」。人や物だけでなく、文化も媒介した最上川に着目する。 (題字は日展会友の平田羽山氏)

2.最後の船大工 伝統継承、小鵜飼船を復元

 最上川舟運の中継地として繁栄を誇った大石田町は、数多くの船大工をはぐくんだ「職人の町」でもあった。その伝統の灯を守り続けているのが木村雄一さん(66)=同町横山。往時、米俵など物資を積み、最上川を往来した小鵜飼船(こうかいぶね)と呼ばれる帆掛け船を建造したことのある県内でたった1人の船大工である。

県内ただ一人の船大工となった木村雄一さん。江戸時代から続く伝統の技を受け継いでいる=大石田町横山
県内ただ一人の船大工となった木村雄一さん。江戸時代から続く伝統の技を受け継いでいる=大石田町横山
 江戸時代、舟運の“担い手”は小鵜飼船と、それよりひと回り大きいひらた船だった。小鵜飼船は「航海船」とも「迂回(うかい)船」とも呼ばれ、最上川上流部や支川で重宝がられていた。元禄年間、米沢藩の浜役人が阿武隈川上流で活躍しているのを見て、「この船があれば運搬に便利になるだろう」と献策したのがきっかけだったという。

 全長は約15メートル、幅約1.8メートル。乗り手は3人。1度に2−3トンの米俵を運んだ。小型で軽い上、へさきがとがり、流線形をしているため、スピードが出る。川幅が狭く、底の浅い上流部の長井−左沢間だけで使われていた。1872(明治5)年、幕藩体制下の旧舟運制度廃止に伴い、全流域を自由に往来できるようになったが、鉄道開通により主役を陸路に明け渡し、昭和30年代に姿を消した。船大工の多くは家大工に転業した。

 1軒だけ残った木村家は、江戸時代から続く川船造りの名工の家柄。6代目の雄一さんは父成雄さんから厳しく仕込まれ、仕事を覚えた。その木村さん父子に小鵜飼船復元の話が舞い込んだのは1983(昭和58)年のことだった。磨き抜かれた技と長年の勘が生きた全長20メートルの船は、酒田市の山居倉庫に展示されている。

 さらに85年には、山形市旅篭町1丁目の元会社社長柴田謙吾さん(95)から制作の依頼が入った。柴田さんは当時、最上川の民俗史を研究し、民具や舟具などを収集していた。最上川べりの朝日町生まれ。小さいころ、いかだ乗りに興味を持ったことから船の歴史に引かれた。文献を丹念に調べていく中で「このままでは船大工がいなくなってしまう。歴史資料として残したい」との思いで私財を投じた。出来上がった船は長さ20メートル、幅2.7メートル。中央は小屋掛けされ、帆柱が立つ。99年、約500点の資料とともに県に寄贈された。

 雄一さんが1人で小鵜飼船を制作したのが91年。大石田町同様、舟運で栄えた福島県塩川町(現喜多方市)からの注文だった。成雄さんが死去した翌年。「父がいなくてもできるだろうか」。悩んだ末に依頼を引き受け、約2カ月かけて完成。大仕事を成し遂げ、自信をつかんだ。

 道具はちょうな、かんな、のみ、のこぎりなど。最も難しいのは、底板と側面の板の擦り合わせ作業だ。水が漏れないように「通し鋸(とおしのこ)」と呼ばれる特殊な道具を使って、一度仮止めした板同士の接ぎ目を調整する。船の材料となる杉は、山へ出掛け、自分の目で見極める。

 雄一さんはこう振り返る。「父は職人かたぎの厳しい人だった。仕事が時間通りに終わらないと『早くしろ』とよく怒られた。川船造りに一生をささげた男。『川がある限り、船は消えない』と言い残し、75歳の生涯を閉じた」

 大石田町内に、師匠でもあった父の最後の作品となる小鵜飼船がある。毎年、大石田まつりの期間に合わせ、町の中心部に展示される。技術の粋が凝縮され、風格さえ感じる。舟運の全盛期を思い出させてくれるようだ。

 木村さんは今、最上川河畔の作業場で年に3隻ほど、釣り用のささ舟を造っている。最盛期は20隻ほど。注文はだいぶ減ってしまった。後継者もいない。だが、自分の舟を大切に使ってくれる人がいる。「舟は子どもみたいなもの。手をかけてやれば20年はもつ。体の続く限り、造り続けたい」。父の遺志と伝統の技を受け継いでいる。
(2008年03月02日 掲載)
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