直江兼続・素顔に迫る(1)謎多い人物像
2009/06/03 掲載
NHK大河ドラマ「天地人」は、かわいい子役の見事な演技が話題となってスタートを切った。主人公・直江兼続役の妻夫木聡をはじめ、北村一輝、小栗旬と、キャストには今人気の俳優をそろえた。兼続は、上杉景勝の家臣。ナンバー2の立場から天下を見るという新しい視点は、新鮮なものだろう。 史実としての兼続はあまりよくわかっていない。直江兼続こと樋口与六の名前が登場する現在最も古い古文書は、1580(天正8)年、景勝から与六にあてたもので、与六は21歳だ。したがって、与六も幼名と言うより通称と言えるだろう。 上杉謙信の死後、2人の養子景勝と景虎がその家督を争った御館の乱で、景勝方が勝利する。その戦後処理を兼続が行っており、景勝の家臣団の中で頭角を現してきた兼続の姿をようやく垣間見ることができるのである。 兼続は1560(永禄3)年、越後国上田庄(現新潟県南魚沼市、湯沢町)に生まれたと言われる。父は坂戸城主長尾政景に仕えた樋口兼豊。主君景勝は兼続より5歳年長であった。兼続の生まれた場所、母についても複数説がある。一般に言われているように、景勝の母仙桃院が兼続の聡明(そうめい)さを見いだして側近にしたというのも逸話であって確かな史料は確認されていない。 景勝、兼続主従にはたび重なる危機が訪れる。御館の乱を勝ち抜いたものの、天下人織田信長が立ちはだかる。かつて、上杉謙信に狩野永徳筆の洛中洛外図屏風(びょうぶ)を贈った信長であったが、2人の共通の敵、武田信玄亡き後は次第にその関係は悪化した。景勝の時代は、領国を包囲され、魚津城(富山県魚津市)では、城将はじめ上杉軍はことごとく討ち死にするまで追い込まれた。しかし、信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれ織田軍が全軍撤退したため、景勝は滅亡の危機を脱することができたのである。 その後、豊臣政権下で景勝は越後から会津に移封。五大老の重責を担い、兼続はこれを支えた。しかし、秀吉亡き後政治の実権を握りつつあった徳川家康と対立。政治の情勢は関ケ原の戦い、上杉軍が最上義光や伊達政宗と各地で戦う奥羽合戦へと向かったのであった。兼続は危機に立ち向かう才覚を持ち、乗り越えることで成長し上杉家の重臣にのぼりつめていったと言えるだろう。 関ケ原の戦いの敗者となった景勝は30万石に減封となり、兼続が城代を務めていた米沢城の初代藩主となった。会津120万石時代の家臣を召し放すことなく米沢に移動したこともあり大規模な城下町の整備が必要であった。上杉家の執政として兼続は、町割り、治水事業、農村支配、産業振興、学問奨励、戦乱に備えての武術指導など、家臣たちを指揮したことであろう。 また、兼続の文武両道の評価は高い。特に兼続の好学心は、彼が収集した貴重な書籍群が物語っている。京都五山や南化玄興をはじめとする禅宗の僧たちとの文化的な交流は、政治面だけでは語れない人脈を構築していった。 兼続と妻おせんの方との間には1男2女があった。嫡男景明に期待しながらもその病弱を心配する父親としての顔もある。1619(元和5)年、60歳の兼続はその波乱の生涯を江戸鱗屋敷に閉じた。兼続の死後もおせんの方は直江家の娘として2代米沢藩主上杉定勝の信頼を得て上杉家中に重きをなした。
今まで、直江兼続の専門的な研究はほとんどなかった。しかし、大河ドラマ放映を機会に研究者がさまざまな分野で兼続の研究を進め、新たな発見やさらなる謎が生まれている。
すみや・ゆみこさんは1959年米沢市生まれ。米沢東高、国学院大文学部史学科卒。専門は、上杉氏を中心とする米沢藩政史、文化財、置賜の民俗など。
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