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第1部・翻弄(ほんろう)[7] サクランボ農家の試練

2014/1/21 10:03
約40年前、本県は米国産サクランボの〝輸入解禁〟に揺れた。朽木新一さんは「生産者、農協、行政が協力して、消費者に求められるサクランボを作り続けてきた」と話す=東根市若木通り4丁目

 環太平洋連携協定(TPP)交渉によって関税が即時撤廃されれば、安い農作物の大量流入によって、本県の農業産出額が約3割、668億円減少するとの試算がある。その衝撃的な数字に農業関係者は動揺を隠せないが、約40年前の本県もある農作物の“輸入解禁”の動きに激しく揺れていた。米国産サクランボだ。

■日本への圧力

 サクランボは1960(昭和35)年度に輸入自由化品目になったものの、植物防疫上の観点から、国内未発生の病害虫コドリンガの食害問題を防波堤に輸入を阻止してきた。これに対して米国は防除法を確立したとして74年から日本に解禁の圧力をかけていた。

 米国産サクランボは国産より「大きくて甘く、安い」という触れ込みだった。「“怪物”をどうする」「超安値で国産を襲う」―。当時の本紙に躍る見出しが混乱ぶりを物語る。

 当時30代だった果樹専業農家の朽木新一さん(75)=東根市若木通り4丁目=は米国産輸入解禁の動きに「本当に不安だった」と明かす。当時のサクランボの主力は「ナポレオン」。缶詰用として高値で取引されてきたが、69年に缶詰の甘味料チクロが健康に害があるとして使用禁止になると、缶詰需要が落ち込んだ。「ナポレオン」の価格も下がり、生食用「佐藤錦」へ生産をシフトし始めた時期だった。

■対抗策が結実

 「果樹作りはもう終わりか…」。JAさくらんぼひがしね常務理事でサクランボ農家の遠藤庄太さん(68)=同市神町北1丁目=はそう思ったという。チクロ問題の前年の68年にはリンゴの価格が生産過剰で暴落。翌年の4、5月になっても売り切ることができず、山や川に捨てざるを得ない「山川市場」を経験した。「何を作ったらいいのかと途方に暮れた」

 県内各地で反対運動が湧き起こった。「生活がかかっていた。鉢巻きをして集会に参加したよ」。朽木さんは運動の様子を記録した「神町農協史」に目を落とした。だが生産者たちの声は届かず、政府は77年11月、翌年の解禁を決定する。

 78年7月、米国産が初上陸し、県内の八百屋や果実店に並んだ。本紙は「色が変で、酸味がない」「一粒50円は高すぎる」との批判的な県民の声を紹介している。一方で「『ナポレオン』や『佐藤錦』よりおいしい」「食べ応えがある」など、好意的な受け止めも少なくなかった。1年目は約1200トンが輸入された。

 “怪物”への対抗策は―。生産者と農協、行政が選んだ道は生食用サクランボの高品質化だった。小粒だが甘味と酸味のバランスがいい「佐藤錦」を主力品種とし、大玉化、実割れ防止を目的に雨よけハウスを普及させた。結実確保など栽培技術の向上にも取り組んだ。冷蔵輸送技術と高速交通網の発達もあり、「山形のサクランボ」は着実に消費者の信頼を勝ち取っていった。

■価格にも大差

 農林水産省と県によると、80年に約500ヘクタールだった「佐藤錦」の栽培面積は88年に「ナポレオン」を抜き、2013年には約2300ヘクタールまで拡大した。本県サクランボの出荷量は1万600~1万3700トン(08~12年)で、米国産の輸入量も近年1万トン前後で推移している。東京の中央卸売市場での卸売平均価格(11年までの5年間)は本県産が1キロ当たり1808円と、米国産の1025円に大きく差をつけている。

 「米国産はそもそも日本人の口に合わなかったから国産は生き残った」という評価もある。だが危機を乗り越えてきた朽木さんと遠藤さんは同じ言葉を口にした。「何もしなければ、今のサクランボの地位はない。全て消費者に求められるおいしいサクランボを作ってきた結果だ。そしてこれからもやるべきことは同じだ」

(「やまがた農新時代」取材班)

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