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酒田大火40年~つなぐ記憶

酒田大火40年~つなぐ記憶(1) アマ無線有志、最前線で情報伝える

2016/10/27 12:30
1976年10月29日当夜の写真。炎がなめるように街を飲み込み、空を赤く染めた【音声あり】

 酒田市の中心市街地約22.5ヘクタールを焼失し、戦後4番目の被害といわれる酒田大火の発生から、29日で40年を迎える。

 大火に出動した消防士の最後の世代が来年春に定年退職するほか、行政、ガス会社などでも大火経験者が現場を去っている。記憶と教訓をどう次世代に伝えるのかが問われる節目だ。被災地に建設された市立資料館では、29日から開催する大火40年企画展で、大火当夜の被災・避難情報を必死に収集、伝達したアマチュア無線の非常通信音声が初めて一般公開される。

 「新井田川の土手まで(火が届くのは)時間の問題」「消防の手配、願いたし」。日本アマチュア無線連盟山形支部酒田クラブの有志らによる大火当夜の非常通信だ。

 自身も会員で当時、市農水産課職員だった斎藤研一さん(65)=酒田市大町。火事の一報を聞いて残っていた市役所の窓から火の勢いを目の当たりにし、総務課長に提案して無線仲間に協力要請した。「ありったけの無線を持ってきてくれ」。研一さんの連絡を受けた斎藤勝尋さん(68)=同=は市役所内の対策本部に駆け付けた。

 市の記録によると、正式な要請時間は対策本部設置と同じ午後7時58分。携帯電話がない時代。一般の有線電話は既にほぼ不通だった。消防隊は猛火で繰り返し放水場所の変更を迫られ、市外からの応援消防隊も、どう配置していいのか分からないほど混乱していた。現状把握には目で見て確認するしかなく、二十数人のアマ無線有志が消火現場の最前線や避難所に走った。

酒田大火の際にアマチュア無線への協力を要請した元市職員・斎藤研一さん(左)と、対策本部で通信した斎藤勝尋さん=酒田市

 どこに消防車が出ていてどこに応援がほしいのか、火の勢い、避難所の収容状況はどうか。街に出た有志は消防無線から聞こえる内容を含め、刻々と変わる生の情報を本部に送った。

 その本部は、市街地の炎で窓が真っ赤に染まっていた。現実とは思えない異様な雰囲気。勝尋さんは無線機にかじり付いていた。本部に持ち込んだのは移動用の簡易アンテナだったため音声が聞き取れないこともあったが、自宅のアンテナで受信できる仲間が中継し、伝えてくれた。

 延焼区域から新井田川を挟んだ緑町に飛び火したというテレビ報道が流れると、本部に衝撃が走る。近くにいた有志からの返事は「(緑町の)近辺は安全です」。正確な事実を確認できた。避難者が集まっていた旧酒田商業高に火の手が迫る恐れがあるとして第2避難所の旧港南小に移る際も、アマ無線が本部の指示を伝えた。有志が地理に詳しい地元民だったことが、迅速で確実な現状把握につながった。

 徹夜のやり取りは、同じく会員で酒田に住んでいた田中芳熙さん(71)=山形市南原町1丁目=がカセットテープ2本に録音。田中さんの提供を受けた勝尋さんと研一さんが、大火から40年を目前にした先月、市立資料館に寄贈した。歴史的資料として残してほしかったからだ。

大火当夜のアマチュア無線による非常通信を録音したカセットテープ

 現在は携帯電話や防災無線、コミュニティーラジオもあるが「情報収集の多重化は絶対に必要だ」と研一さんは力を込める。大火の時も消防、警察の無線があったのに混乱を極めた。「正確な情報を把握できなければ、適切な対応も情報発信もできない」。後に市危機管理課危機管理官を務めた研一さんは続けた。

【酒田大火】1976(昭和51)年10月29日午後5時40分ごろ、中町2丁目の映画館「グリーンハウス」から出火。台風並みの強風にあおられ、延焼範囲が拡大。翌30日午前5時に鎮火するまでの焼損棟数は1774棟に上った。死者1人、負傷者1003人。

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