2011年03月17日
先の見えない不安と無念さに涙をぬぐう男性=山形市総合スポーツセンター
「もう戻るところがない」-。福島県から避難してきた人々が集まる山形市総合スポーツセンターで16日、毛布を広げ居場所を確保した南相馬市の男性会社員(50)は、先の見えない不安を口にした。愛着ある古里を離れざるを得なかった無念と怒り。その矛先は「安全神話」に彩られた原子力行政にも向けられた。
男性の自宅は福島第1原発から約20キロの距離。津波の被害は何とか逃れたものの、12日の事故のニュースを聞いて、着の身着のまま家を飛び出した。「孫たちに放射線を浴びせたくない」との一心だった。財布も通帳も忘れてきた。ガソリンはぎりぎり。とにかく行けるところまで行こうと、娘夫婦や知人家族らと連絡を取り合いながら山形を目指した。
福島県内の避難所は満杯で受け入れてもらえず、一度は自宅に戻り、車中泊もした。山形市の避難所にたどり着いたのは14日夜。体調が心配な70代の父母を東根市の知人宅に預け、孫のおむつを買うため長蛇の列に並んだ。県内に入って3日目、ようやく温かい食べ物を口にした。
「地震や津波は天災だから諦めもつく。だが、原発事故で被ばくするのは人災。納得がいかない」と怒りが込み上げる。確かに今まで事故はなく、原発の恩恵もあった。その筆頭が雇用だ。男性は建設会社に勤め、原発近くに船が寄港できるよう、海底の砂とヘドロを分けるしゅんせつ作業に従事してきた。兼業農家として米も作ってきた。でも、もう仕事はないだろうとため息をつく。「原発に関わる仕事はなくなるだろうし、福島の米は被ばく米。そんな危険な米は誰も買わない」
15日に村山保健所で放射線量を検査した。異常はなかったものの「大丈夫なはずがない」と譲らない。原発内部で仕事し、体調を崩して亡くなった人を何人も見てきたからだ。孫たちが障害のある子どもを産むかもしれない。不安を抱えた人生を歩まなくてはならない。「“今のところは”大丈夫ってだけでしょう。このまま黙っていたら私たちの被害も忘れられて終わり。仲間にも生き残ってもらって、原発事故は人災だと訴え続けたい」。孫のため。それだけが今の男性の生きる原動力となった。
16日、避難所の中で50歳の誕生日を迎えた。25年計画で組んだマイホームの住宅ローンは来月で終わるはずだった。「これから、というところだったのに」。それまで気丈に語っていた男性は、込み上げる涙を抑えられなかった。「津波で打撃を受けたって、みんなでまちを復興できたのに。もう戻るところがない。山形市もいつまで受け入れてくれることか」。不安は次々浮かんでくる。「生きて苦労するなら、死んだ方がよかった」。思わず漏らしてうつむいた。