2011年04月20日
-東日本大震災が発生した際はどこに。
「国立がん研究センター(東京都中央区)にいた。ニュージーランド地震の記憶があったので、建物が倒壊するかと思い、外に出た。すると周りの建物も横にだけでなく、回転するように大きく揺れていた。電車が止まっていたので友人の車に乗って自宅に向かったが、渋滞で前に進まない。午後4時20分にセンターを出て、吉祥寺の自宅に着いたのは10時半だった。青梅街道や5日市街道を黙々と歩く人々が印象的だった。あんな光景は見たことがない」
-震災では地震に加え、津波の被害が大きかった。
「地震予知に関しては、東海地震ばかり注目されていたが、なぜ三陸に目が行かなかったのかが悔やまれる。現在は地震後すぐに、各地の震度や震源地、津波警報が発表される。今回はもっと緊急な『巨大津波警報』を出すなどして、しっかりと注意を喚起すべきではなかったか。避難してから自宅に戻り、被害に遭った人もいる。自然科学者の1人として言えば、学者を含めてもう少し検討すべきだと思う」
-戦時中、鶴岡市に家族が疎開した。その経験から避難生活を送る人々に言いたいことは。
「家族が鶴岡に疎開したのは1945(昭和20)年3月。私は東京大医学部に入学するため、1人で東京に残ったが、しばしば鶴岡に行っていた。鶴岡の人たちは心が温かく、よく面倒を見てくれたため、家族は幸福だったと思う。さらに、私は庄内地方の師弟が入る学生寮『荘内館』に入寮できたため、多くの友人ができた。確かに避難するというのはマイナスだが、新たな人との出会いもある。ポジティブに考えた方がいい」
-長引く避難生活は、健康面にも影響が出てしまう。
「生理学的に、お年寄りは新しい環境に適応しにくい。その結果、精神的にもダメージを負うことになる。ライフラインが復旧しない中での介護、看病は非常に苦労していると思う。それに、福島第1原発の事故は残念。この状況の下、放射線量を心配しながら、原発の近くで仕事をしている人は大変だ」
-復興に向けて県民はどうサポートするべきか。
「山形県人はお世辞は言わないが、心がこもった言い方をする。自分を犠牲にしても人のことを考える傾向もある。また、排他的なところもあるが、おおむねおおらかだ。庄内でも藤沢周平さんや丸谷才一さんなどの文化人を輩出する一方で、慶応大先端生命科学研究所などが最先端の研究を進めていたりする。知的にレベルが高く、落ち着いたものの考え方ができる。地理的に山形は東北の中心部。復興をリードすることができるのではないか」
すぎむら・たかしさん 国立がん研究センター顧問、日本学士院幹事。1926年東京都生まれ。74年に国立がんセンター(現国立がん研究センター)研究所長、84年に同センター総長。92年に名誉総長に就き、東邦大学長も務めた。93年から2006年まで財団法人日本対がん協会長。78年文化勲章受章。鶴岡市、東京都武蔵野市の名誉市民。