刻む3・11~震災4年「あの時」の県内(7・完) ガソリンスタンド―給油待ち、長い車列
2015年03月11日
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閉店したガソリンスタンドの前にできた車の列。県内各地で見られた光景だ。エンジンを切り、毛布にくるまって翌日の開店を待つ人もいた=2011年3月17日午後10時57分、山形市
震災発生直後、多くの県民と同じように松本さんも「タンクローリーが来るまでの辛抱だ」と楽観視していた。しかし、期待はすぐに打ち砕かれた。ラジオのニュースは、太平洋沿岸を襲った大津波で港湾施設が壊滅したことを伝えていた。「灯油やガソリンは当分、入荷できない」。経験したことがない現実を突きつけられた。 「大変なことになった」。松本さんの会社では幹部が集められ、善後策を協議した。人命を尊重して病院や福祉施設に優先的に灯油を配ること、ほかの顧客には販売量を制限すること、価格は据え置くことが決まった。 ■怒りむき出し 発生翌日、早朝からガソリンスタンドを始点とした長い車列ができた。エンジンを切り、客は車内で毛布にくるまって待っていた。その日の販売量を売り切ってしまい、寸前で給油できなかった客は怒りをむき出しにした。「なぜガソリンを入れない。いつもお前のところから買っているのに」。殴りかからんばかりに詰め寄られた。胸ぐらをつかまれたことも1度や2度ではなかった。 燃料が枯渇する恐怖を県民は感じていた。接客を通じ、その気持ちは痛いほど伝わってきた。不安といら立ちの矛先は給油を制限するガソリンスタンドの従業員に向けられた。 停電が長引いたことも不安を増幅させた。3月中旬とはいえ、朝晩の冷え込みは続き、外には多くの雪が残っていた。顧客から灯油配達を依頼する電話が入り始めた。全てに対応していては在庫が底をつく。何とか融通してもらおうと、仕入れ先に問い合わせても色よい返事は得られなかった。200リットル、100リットル、50リットルと制限量を段階的に下げて対応するしかなかった。 ■戻らぬ取引先 大口の取引先の中には優先的な灯油の販売を求める会社もあった。事情を説明しても相手は「いつも買ってやってるのに売れないのか」を繰り返した。ひたすら頭を下げるしかなかった。理解を得られずに多くの取引先を失った。 「何とか灯油を売ってくれないか」。発生から2、3日たったころだっただろうか。松本さんの携帯電話に、被災地の親戚に救援物資を届けるという友人から連絡が入った。期待に応えたかったが、売れる灯油は店にはなかった。困り果てた友人を見かねた松本さんは、自宅のタンクから灯油を抜き取り、友人のポリタンクに詰めた。それが精いっぱいの対応だった。 あれから4年が経過しようとしている。失った取引先は戻っていない。「われわれもパニックで心の余裕がなかった」と松本さんは振り返る。しかし、後悔はしていない。全ての人に公平に、満遍なく燃料を行き渡らせた対応は「あれがあの時にできる最大限の対応だった」。そう思っている。 =おわり この企画は報道部の安達一智、玉虫秀明、三浦光晴、伊豆田拓、酒田支社の田中大、天童支社の野村健太郎、新庄支社の菅原武史が担当しました。
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