わいわい子育て![]() 被災地子育て応援フォーラムIN山形(上) 天野秀昭さん(大正大特命教授)が基調講演東日本大震災で被災した子どもたちの心のケアを考える「被災地子育て応援フォーラムIN山形」(主催・こども未来財団、長寿社会文化協会)が山形市であり、専門家らによる講演やパネルディスカッションが行われた。内容を2回に分けて紹介する。前編は、大正大人間学部のびのびこどもプロダクトコース特命教授で、NPO法人日本冒険遊び場づくり協会理事の天野秀昭さんの基調講演を取り上げる。以下は講演要旨。
「遊びの主役は子ども。大人に主役を乗っ取られ子どもたちは傷ついている」と語る天野秀昭さん=山形市・県JAビル
僕の本業は子どもの「遊び場」作り。といっても設計や造園ではない。「自分の責任で自由に遊ぶ」のモットーを掲げ、基地作りや穴掘り、水遊び、子どもがやりたいと思ったことを自らの手で実現できる場を地域住民と共に作ってきた。 記憶をたどってみてほしい。親に叱られた時、友達との間で嫌な思いをした時、空を眺めたり、絵を描いたりして自分自身を癒やした経験があるのではないだろうか。子どもに限らず、人には自分を回復させる力が備わっている。 1995年、阪神大震災の時に神戸市長田区に入り、公園の一角に遊び場を作った。震災から1カ月ほどたつと、大人たちがものすごい勢いで被災体験を語り出した。言葉にすることで体験を整理していたのだろう。同じことが、子どもたちからは衝撃的な形で表れた。廃材を利用した手作りの机の上で3、4人がスクラムを組み「震度1じゃ、2じゃ」と叫びながら机を揺らしていく。揺れはだんだん大きくなり「7じゃ」という叫びとともに机をつぶし、子どもたちは「わーっ」と歓声を上げてまた次の机の上に移っていく。こんな遊びを始めたのだ。ある時は、廃材を積み木のように並べ、その隙間に新聞紙を置いて火をつけた。「燃えとる、燃えとる。街が燃えとる、学校が燃えとる!」。そう言いながらまきを放り込んでさらに火を大きくする。 ■やっと表に出た
震災後、宮城県気仙沼市に作られた「遊び場」。子どもたちの元気な声が響く(写真はいずれも天野秀昭さん提供)
衝撃的だったけれど、僕には「やっと表に出た」という思いもあった。「震度7じゃ」と言って机の脚を折る。つまり、どうにも対処ができなかったあの地震を再現し、自分の中でコントロールできるものとして収め直しているのだ。火もまた、自分であおいだり消したり調節できるものとして、遊びの中で捉え直そうとしている。だがこれらの行為は、被災した大人たちを激怒させた。子どもにとって重要な経験なのだと説明したけれど、理解を得るのは難しかった。 東日本大震災では、子どもの心のケアがかなり早い段階から語られた。もともと子どもは自分をケアする力を持っている。ただしそれは、阪神の時のように大人から見ると「えっ」と驚く形で表現される可能性が高い。傷ついた気持ちを表す時には、遊びが荒っぽく、残虐なものになる場合が多いからだ。こうした“悪”も含めて子どもの表現としてあっていいと思っている。「やっちゃだめ」と言われ我慢した瞬間から、心は癒やされることなく重症化する。そういう遊びをやっていいと保証できる場を作る必要があると思い、被災地に入った。 昨年4月、地元の人たちの協力を得て、宮城県気仙沼市本吉町大谷地区に遊び場を作った。かつて畑だった平地と、急斜面のうっそうとした林が隣り合ったうってつけの場所。多くの子どもたちが来てくれた。 子どもは元気になれば走り回る。神戸や東京で遊び場を作った時は、大人から「うるさい」と苦情が出た。僕は、子どもを語る三大形容詞は「危ない」「汚い」「うるさい」で、それらを十分に堪能するのが子ども時代だと思っている。ところが今、子どもが子どもであることを大人が歓迎しなくなってきている。危なくて汚くてうるさい子はしつけの対象になってしまう。 だが気仙沼の、特にお年寄りは子どもの元気な姿を本当に歓迎してくれた。「家にいると泣いてばかり。ここに来ると子どもの歓声が聞こえてうれしい」と遊び場に来てくれる。子どもが子どもらしくしていることを喜んでくれる大人の存在が、どれだけ子どもの心のケアを進めただろう。子どもにとって最も大事な環境は「大人」だということをつくづく感じた。 気仙沼に遊び場がオープンしたばかりのころ、子どもたちは体が動かず、コミュニケーションもうまく取れない状態だった。家の中でゲームばかり、外で遊んでこなかったのだろうと分かった。ひょっとすると、山形の子も同じ状況かもしれない。 ■傷つけられ続け
斜面を利用して作った滑り台
昔は子どもたちはどこででも遊んだ。今は、事故やその責任追及が過剰に騒がれ、大人たちがヒステリックなまでに禁止や制約をつくり、「正しい遊び方」を指定している。子どもにとって「遊び」は、「やってみたい」という気持ちがまず動機としてあるもの。やってみたいと思うから遊び、つまり主役は本人以外にないのが遊びなのに、今は大人がやらせたいと思ったことを子どもにやらせている。 子どもは傷ついた気持ちを遊びの中で癒やしてきた。だがその遊びの世界が危機的な状況なのだ。子どもたちは、大人に主役を乗っ取られてかなり傷ついている。日ごろ傷つけられ続けている子どもは、人を傷つけることにも平気になる。これはいじめの問題とも無縁ではないだろう。災害の有無にかかわらず、日常的なところで子どもの生きる力をもう一度取り戻していかなければならない。 2012年8月7日掲載
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